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11回も行われた会見

昭和天皇とマッカーサー元帥との会見は、1945(昭和20)年9月から1951(昭和26)年4月までの間に11回を数えた。第2回は、1946(昭和21)年4月23日に実施する予定だったが、朝9時になり中止が決定した。これは、当時の幣原(しではら)内閣が総辞職したためだった。

仕切り直して、同年5月31日に第2回の会見を実施することが、5月28日に決定した。この時も“厳秘の扱い”とされ、これは連合国軍司令部からの要請だった。約1時間40分にわたる会見は、昭和天皇から食糧援助に対する感謝と更なる援助の要請、満洲・朝鮮半島の残留邦人への配慮に対する御礼、民生安定・生産奨励・文化発展の希望、皇室財産を役立てたいこと、地方巡幸への協力及び新憲法作成への助力に対する謝意などが伝えられた。

同年11月3日には、日本国憲法が発布されるが、これを前にした第3回の会見が10月16日に行われた。このとき昭和天皇は、マッカーサー元帥に対し、理解ある援助により去る5月の食糧危機を乗り越えることができたことに感謝の意を表された。また、このたび成立する憲法により、民主的新日本建設の基礎が確立された旨の御認識を示され、憲法改正に際してのマッカーサー元帥の指導に感謝の意を表されたことが、宮内庁の公文書に残されている。

会見は1949(昭和24)年までの間に8回を数え、同年11月に行われた9回目の会見では、早期の講和条約の締結について、また日本の安全保障などが話し合われている。最終回となる1951(昭和26)年4月の11回目では、翌日に控えたマッカーサー元帥の帰国を前にした“お別れ”が行われたのみで、具体的な話の記録は残されていない。

マッカーサー元帥が帰国したのち、同年9月8日に日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が締結され、翌1952(昭和27)年4月28日の同条約の発効をもって日本国は主権を回復した。そして昭和天皇は、マッカーサー元帥との約束を「男子の一言のごときことは守らねばならない」と語り、以後、口にされることはなかった。

幣原内閣の総辞職により中止となった第2回会見のことが書かれた昭和21年の幸啓録より=資料/宮内公文書館蔵
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文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会皇室写真記者。1970年、東京都生まれ。中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、鉄道友の会会員。

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