マグロ船のコック長の忘れられない思い出
おぉ、店内に一歩入ってみると、まさに思惑通り。店にはまだお客さんが入っていなかった。俺はドキドキしながら言ってみた。
「食事だけでも良いですか?」だって車だもん。
「はい、良いですよ」。メニュー書きをしていたマスターの齋藤さんがマジック片手に俺に答えた。
俺は椅子に座ってまず何をオーダーをしようかと悩んだ。「マグロサシと……うーん」。
俺がオーダーを迷っていたら斎藤さん「頬裏刺しが人気だよ」と。
俺は「そしたら、マグロサシと頬裏刺し、ご飯と味噌汁をお願いできますか~? あとノンアルビール1本」と言い、さらにおもむろに「すみません、他にお客さん、いないみたいなんで。この本にサインいただけますか~?」と言ってボディバックから『まぐろ土佐船』を取り出した。俺はなんて図々しいんだか。
料理が運ばれた後、齋藤さんはヘンテコな客である俺の質問に少しも嫌な顔せずに付き合ってくれた。
頬裏さしを口いっぱいにほうばりながら、「いま、この本まだ読んでる最中なんですよー」と俺。
齋藤さんは、「マグロで自主トレしてるカメラマンさんか~。マグロって奥深いよな~」
「本当に奥深いです。うっ! 頬裏刺し旨いです。はふはふ」。口の中で頬裏刺しの繊維質がほぐれてきて、まさに上質の肉を食べてる感じだ! ご飯が進む進む!! はーっ、これで一杯飲めれば最高だ。
その後、延縄漁船の船内料理についての疑問に答えてくれた斎藤さんに、俺は「最後に、マグロ漁船のコック長やってて、忘れられない思い出ってなにかありますか?」と聞いてみた。
斎藤さん、暫し考えてから遠くを見る目で、「縄ぶねに乗ってたことがね、今も昨日のように思い出されるけど、その中でも今、君に言われて思い出した風景があるよ」
「おぉ、それは一体……どんな風景なんですか?」と俺。
「南氷洋タスマン海の南緯45度を超えたあたりだったかな。投縄も終わりかけて朝方になってきた時分に、確か船員はまだ作業中だったと思うけど、見渡す限りのオーロラが空一面に出てきたんだ。そりゃ~幻想的な美しい光景だったよ。
ものすごく寒い中、僕はデッキに走り出てオーロラの空を見上げたんだ、その時だね“親分”(漁労長)が八代亜紀を流したのは!
船のスピーカーのボリュームいっぱいで流れる亜紀ちゃんの歌が船の甲板はおろか海全体に流れ出て、オーロラの海と見事にマッチしたんだ。生きてるって実感は、こういう時に感じるんだな~って思ったものだよ!」
斎藤さんがしみじみ語ったその顔がカメラマンの俺には生涯忘れられない心の絵になった瞬間だった。聞いていた俺もまた、“生きてるって実感”が湧いてきたってもんだ。
旨いマグロに良い思い出話が最高の調味料となって、俺の夕食は大満足なものになった。
店を後にしてから、ふと俺は思った。いけねぇ八代亜紀のどの曲だったか聞くの忘れた! って。演歌の女王・八代亜紀にはヒット曲が多い。例えば『おんな港町』や『舟唄』『雨の慕情』などを筆頭にヒット曲は数十曲もある。
もし、俺がオーロラの下で八代亜紀を聞くなら、『舟唄』が良いが、あなたならなにが良い?
あっ! そうかメドレーで聞けば良いんだな……(笑)。
P.S.『まぐろ土佐船』はDVDにもなっていた。もちろん即購入(笑)。
【協力】
嫌な顔のひとつもせず、変な客だった俺につきあってくれた『炊屋(かしきや)』のマスター斎藤健次さん、本当にありがとうございました。
■『炊屋』(かしきや)
[住所]千葉県船橋市習志野台4-23-13
[電話番号]047-464-9909
取材・撮影/鵜澤昭彦