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国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。連載「音楽の達人“秘話”」の音楽家・加藤和彦の第2回は、大ヒット「帰って来たヨッパライ」に続いてリリース予定だった幻の名曲「イムジン河」のエピソードです。レコード会社は、ある事情で発売日前日に急きょ、このシングル盤の「発売中止」を発表します。ただ、一部は市中に出回って……。その理由とは。

「帰って来たヨッパライ」が大ヒットしても「プロでやれる自信はまったく無かった」

「帰って来たヨッパライ」が日本の音楽史上初のミリオン・セールス・レコードとなった。ザ・フォーク・クルセダーズは、メンバー間で決めていた解散を覆し、再結成することになった。加藤和彦、北山修というオリジナルメンバーに加え、はしだのりひこが新たに加入し、トリオ・グループとして再スタートした。

“ぼくは本当はプロになる気が無かった。北山(修)に説得されて1年間限定なら活動してもいいと言ったんです。「帰って来たヨッパライ」はフロック(まぐれ当たり)みたいなヒットだった。あの曲が売れたからといって、プロでやっていける自信はまったく無かった。気付いたら何かの坩堝(るつぼ)にはまってしまった。そう思っていました”

1976年、妻だったミカと離婚し、ソロ活動をスタートさせた直後、ぼくは初めて加藤和彦と逢えた。その時、ザ・フォーク・クルセダーズについてそう語っていた。

ザ・フォーク・クルセダーズのアルバムの数々。左上が、「帰って来たヨッパライ」「イムジン河」が収録された『ハレンチ』

1968年2月21日に発売予定だった第2弾シングル

東芝音楽工業と1年間限定のメジャー契約をしたザ・フォーク・クルセダーズは、「帰って来たヨッパライ」の熱がまだ冷めない中。1968年2月21日に第2弾シングル「イムジン河」をリリースすることになった。

「イムジン河」は北朝鮮の朴世永が作詞し、高宗漢が作曲。1957年8月、北朝鮮音楽家同盟の機関誌『朝鮮音楽』の付録の楽譜集で発表された。

フォークル版「イムジン河」の日本語詞を担当したのは、「帰って来たヨッパライ」を作詞した松山猛だった。松山猛とは、1978年に半年ほど仕事をした。その仕事とは、竹内まりや初のラジオ番組のパートナーとして松山猛が決まり、ぼくは台本構成を頼まれた。その時に「イムジン河」について松山猛にこの曲について色々と教えてもらった。

中学生時代、京都の朝鮮学校にサッカーの試合を申し込むべく、そこに訪れた。その時、偶然にこの曲を耳にした。そのしばらく後、市内でトランペットの練習をしていた時、サックスの練習をしに来ていた朝鮮学校の学生と友達になった。その友達、文光珠からメロディと歌詞を教わった。そして文光珠の姉が書いた日本語ルビ付きの1番の朝鮮語詞と日本語訳をもらったと松山猛は教えてくれた。

数年後、まだアマチュアだったザ・フォーク・クルセイダーズ(当時、後にザ・フォーク・クルセダーズとなった)のメンバーと知り合い、加藤和彦にメロディを歌って伝えた。加藤和彦はその松山猛の歌を採譜した。1番だけでは楽曲としては短いので、松山猛は2番と3番を作詞した。

「イムジン河」はアマチュア時代のザ・フォーク・クルセイダーズ のレパートリーとなり。 300枚限定の幻の自主制作アルバム『ハレンチ・ザ・フォーク・クルセイダーズ』にも収められた。つまり、「イムジン河」は「帰って来たヨッパライ」に次ぐ、「ハレンチ・ザ・フォーク・クルセイダーズ』からの2枚目のシングル・カット曲となる。1968年2月1日、加藤和彦、北山修、はしだのりひこによって「イムジン河」は新たにレコーディングされた。この時にグループ名をクルセイダーズからクルセダーズに改めた。

サディスティック・ミカ・バンドのアルバムの数々
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岩田由記夫
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