国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。連載「音楽の達人“秘話”」の音楽家・加藤和彦の第3回は、幻の名曲「イムジン河」の発売中止を受けて急遽、録音された「悲しくてやりきれない」の制作背景をお伝えします。作曲者本人から聞いた貴重なエピソードです。
「同じようなタイプの曲を作れ」
「イムジン河」が発売中止となってしまったザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)は、急遽、「悲しくてやりきれない」を録音、1968年3月21日 にリリースした。B面はフォークル・ファンの間で名曲とされる「コブのない駱駝」だった。「悲しくてやりきれない」は、作詞を詩人のサトウハチロー、作曲を加藤和彦が担当した。
“「悲しくてやりきれない」は「イムジン河」の発売中止を受けて、同じようなタイプの曲を作れと言われて、音楽出版社の社長室に閉じ込められたんです。3時間で作れと言われたけど、割とすぐにメロディーが浮かんできた。できあがった曲をすぐにサトウハチローさんに聴いて頂いて詞を書いてもらったんです”
1976年、初めて加藤和彦と逢った時にそう語っていた。
「帰って来たヨッパライ」ほどでは無かったものの「悲しくてやりきれない」も大ヒットとなった。1968年当時、J-popという表し方はもちろん、ニューミュージックという言葉も生まれていなかった。ぼくの記憶では音楽のパイオニアとかフロンティアと彼らはよく表現されていたと思う。何枚かのシングル~この中にはザ・ズートルビー名義の「水虫の唄」も含まれる~を発表、唯一のオリジナル・アルバム『紀元貮阡年』を残し、1968年9月4日に解散を発表したザ・フォーク・クルセダーズは10月17日のフェスティバルホール(大阪・中之島)での『フェアウェルコンサート』を最後に解散した。
「乗せられた電車が勝手に暴走して終点に突っ込んだ感じ」
ぼくはザ・フォーク・クルセダーズのライヴを2回ほど観ることができた。1回目の場所は忘れたが、フォークルだけでなく森山良子などとのジョイント・コンサートだった。2回目は東京での『フェアウェルコンサート』で、資料を調べたら1968年10月7日、渋谷公会堂とあった。当時18歳だったぼくは何者でもなく、ああやってステージで唄いたいとぼんやりと思ったりしていたのを覚えている。ちなみに彼らは解散までの1年足らずで約100本のライヴをこなし、加えてテレビ、ラジオ、雑誌などといったメディアへの露出、そしてレコード制作をしていたのだから超殺人的スケジュールだったと思う。
“死ぬほど忙しかったけど、今思うとあっという間だった。乗せられた電車が勝手に暴走して終点に突っ込んで行ったという感じだったかな”
そう加藤和彦は語った。
そして“北山(修)に説得されてフォークルを再スタートするまでは、音楽で食べて行けるなんて思いもよらなかった。大学に入る頃はじいさんの後を継ぐくらいに思っていた(祖父は仏師)。それがフォークルをやっていく内に音楽で食べていける自信がついた。今振り返ると絶好のスタートだったんだよね”と1976年の加藤和彦は言っている。