国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。竹内まりやの第2回は、1978年のソロ・デビュー以降、周囲の期待を集め、着実にメディアへの露出が増えていったころのお話です。そんな中、週刊誌のグラビア企画のオファーがあったのですが……。
1978年、デビュー当時の日本の音楽シーン
1978年の日本の音楽シーンは、1960年代末~1970年代初期に胎動し始めた。それまでの歌謡曲とは異なる作法で生み出される音楽が市場の主流となっていた。そういった音楽は一括りにされて、ニューミュージックと呼ばれていた。現代のJ-POPの先がけだ。そのニューミュージックも細分化が始まっていた。
ロックはロック・ジャンル、フォークはフォーク・ジャンルという具合に。1970年代末、シティ・ミュージックというジャンルがもてはやされるようになった。都会へ主に東京だが、その華やかさやアーバンなイメージ、そこに暮らす人たちの心象風景などを、ソフトなポップス仕立てにした音楽群がシティ・ポップスだった。
竹内まりやもそんなシティ・ミュージックにジャンル分けされた。また、彼女がデビューした頃は、女性ヴォーカリストが数多く登場し、ブームにもなっていた。1974年にシングル・デビューしていたが、アルバム・デビューは1978年の八神純子、元モデルの堀川まゆみも1978年デビューで、竹内まりやの言わばライバルだった。
すでにキャリアのあった八神純子が先行し、4代目クラリオン・ガールでユーミンの夫である松任谷正隆がプロデュースする堀川まゆみ、それを竹内まりやが追う。1978年の歌姫シーンはそんな感じだった。八神純子にも堀川まゆみにも1978年にインタビューしたが、本人たちは別にライバル意識を持っていたわけではない。レコード会社同士のセールス争いをマスコミが報道したので、ライバルに見えただけだ。
音楽誌で組んだカラー特集
竹内まりやのデビュー・アルバム、その人柄に大いなる可能性を見出していたぼくは、個人的に彼女をプッシュした。音楽誌でのインタビュー、FM東京でオンエアされた彼女の初のDJ番組の構成などだ。ちなみに彼女のお相手はザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」、「イムジン河」などの作詞や、エッセイストで知られる松山猛だった。
竹内まりやにも加藤和彦作曲の「おかしな二人」、杉真理作曲「目覚め~WAKING UP ALONE~」などの詩提供をしている。雑誌『ブルータス』の創刊などにも関わった松山猛の時代を見る眼を尊敬していたぼくは、彼も竹内まりやの可能性に着目してくれたのを嬉しく思った。
当時、小学館が発行していた『ザ・ミュージック』という音楽誌でカラー特集も組んだことがある。ただ単に彼女の音楽を紹介するだけでなく、何か絵になるものは無いかと考えたあげく、ツイスター・ゲームをやってもらうことになった。サイコロを振って、出た目の通り、床に敷いたマットに両手、両足を置いてゆくゲームだ。竹内まりやのスタイルの良さを強調すべくTシャツ、ショートパンツ・スタイルになってくれるようにお願いした。今から考えるとかなりセクハラ企画だったが、彼女は持ち前の明るさで楽しんでくれた。カメラマンは音楽カメラマンの草分けであり、吉永小百合などの指名写真家としても知られる若き日の三浦憲治だった。