国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。今回から紹介するのは、竹内まりや。1978年のソロ・デビュー以降、日本の音楽シーンで存在感を発揮し続け、近年は海外でもその楽曲に熱い視線が注がれています。第1回は、シンガー・ソングライターとして非凡な才能を大きく開花させる前、デビュー・アルバムのライナーノーツを書いた執筆者本人による貴重な挿話です。
MARI&REDSTRIPESのバック・コーラス
ぼくが竹内まりやを初めて知ったのは1977年頃だ。MARI&REDSTRIPESというグループのデビュー・アルバム『MARI&REDSTRIPES』を気に入って、連載誌にレコード・レビューを記した。その縁でリーダーの杉真理と逢えた。アルバムにクレジットされていた人たちについて訊ねた。そのひとりがバック・コーラスで参加していた竹内まりやだった。
杉真理はものすごく歌が上手くて、おまけに美人だと評していた。ちなみにMARI&REDESTRIPESには、1978年にRCサクセションに加入する新井田(にいだ)耕造、後のシティ・ミュージック・シーンで人気となった安部恭弘も参加していた。
杉真理と竹内まりやは、彼が慶應大学時代に組んでいたピープルというバンドに彼女が参加したことで関係が始まっている。ピープルが1974年秋、ヤマハ・ポピュラー・ソング・コンテストの関東甲信越大会に出演した時、同じコンテストに出演していた佐野元春と杉真理が出逢っている。佐野元春は杉真理を兄のように慕い、その関係は恐らく今でも続いていると思う。1982年には大滝詠一、杉真理、佐野元春による『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』が発表されている。
竹内まりやも杉真理を兄ように慕い、自身の数多くのアルバムに参加してもらっている。杉真理はソングライターとしても高い能力を持ち、サントリーのCMソングのために作曲し、SAYURI(石川さゆり)が1991年にリリースした「ウイスキーが、お好きでしょ」は竹内まりやもカヴァーしてヒットさせた。
竹内まりやと直接逢うことに きっかけは一本の電話
杉真理にその名を詳しく教えてもらい、頭の片隅に残していたものの、まさか竹内まりやと直接逢うことは想像していなかった。仕事柄、多くのミュージシャンにインタビューし、アルバムのクレジットに記された人たちについて訊ねる。けれども、そういったバックアップ・ミュージシャンがソロ・デビューするケースはそんなに多くない。竹内まりやはそんなに多くないひとのひとりとなり、さらにもの凄く稀といえる大成功を収めた。
きっかけは1978年、RCAレコード(当時)のA&Rマン、Tさんからの電話だった。TさんはRCAレコード以前はビクター・レコード(当時)に在籍し、洋楽のバリバリのA&Rマンだった。アメリカの1940~60年代の音楽に造詣が深く、日本でのモータウン・レコードの知名度向上に尽力した。
RCAに移ってからもエルヴィス・プレスリーやデヴィッド・ボウイなどを担当していた(余談だがぼくにデヴィッド・ボウイを非公式に逢わせてくれたのもTさんだった)。1970年代末、洋楽の有能なA&Rマンに部署を移ってもらい、日本人ミュージシャンを担当させることが増えていた。洋楽の売り出し方で日本人ミュージシャンも売り出すためだ。
当時、レコード・セールスの主流はそれまでの演歌や歌謡から、ニューミュージックと呼ばれた新世代のミュージシャンの作品に移っていた。ニューミュージックのミュージシャンたちはほとんど洋楽から影響を受けて、自己の音楽を確立していた。そういったミュージシャンに対応するには、A&Rマンにも洋楽の知識が必要だったことも洋楽A&Rマンが日本人を担当するようになった理由だろう。