国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。連載「音楽の達人“秘話”」は今回から、音楽家の加藤和彦(1947~2009年)を取り上げます。京都の学生時代にアマチュアグループのザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)を結成。1967年の解散記念自主制作アルバムに入っていた「帰って来たヨッパライ」が深夜ラジオで話題になります。これを受けて発売された同曲のシングルはミリオンセラーに。その後、サディスティック・ミカ・バンドを経て、作曲家、音楽プロデューサーなどとして幅広く活躍しました。「音楽の達人“秘話”・加藤和彦」の第1回は、名曲「帰って来たヨッパライ」が大ヒットした頃のお話です。
2009年に62歳で亡くなった加藤和彦
加藤和彦が62歳の人生を閉じたのは2009年10月16日。かれこれ14年の歳月が流れた。60代以下の人はリアルタイムで無いと思うが、加藤和彦、はしだのりひこ、北山修によるザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が発売されたのは1967年12月のことだった。発売元は東芝音楽工業の洋楽レーベル、キャピトル・レコードからだった。
当時の日本の音楽シーンは演歌が中心で、若者向けの音楽と言えば、歌謡ポップスかグループ・サウンズ(GS)くらいしか見当たらなかった。ぼくのようなひよっ子の音楽マニアは、ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズなど、いわゆる洋楽を聴いていた。
「帰って来たヨッパライ」のリリースを担当したのは、日本におけるザ・ビートルズの初代ディレクターだった高嶋弘之だった。高嶋弘之は俳優の高嶋忠夫の実弟だ。娘は、ヴァイオリニストの高嶋ちさ子。最近、親子でテレビに出演していたので、ご存知の方もいるだろう。
海外から送られてきたシングル盤がビートルズ、仕掛け人・高嶋弘之の存在
1970年代後期、ぼくが制作に関わったアルバムの音楽出版権に関して、当時、チャペル・インターソングの社長だった高嶋さんには大変お世話になった。とても温厚な方で、音楽出版に関するビジネス・トークだけでなく、1960年代の日本のレコード会社の洋楽部についても色々と興味深い話を教えて頂いた。
1960年代初期の日本のレコード会社は、邦楽部中心で回っていて、洋楽部は“離れ小島~マイノリティだったと高嶋さんは言っていた。海外レーベルの小さな窓口、それが日本の洋楽部だった。海外から毎月、何十枚というレコードが送られてきて、それらを取捨選択して、日本でのリリースを決め、宣伝するのが洋楽部の主な仕事だった。
“ある日、海外から送られて来たシングル盤を聴いていたら、心にダントツにピンと来るレコードがあった。日本でもヒットすると信じて、当時の洋楽部としては破格の宣伝費をかけることにした”
そのレコードとは、1964年2月にリリースしたザ・ビートルズの「抱きしめたい」だった。高嶋さんはザ・ビートルズのイギリス本国での1962年のデビュー・シングル「ラヴ・ミー・ドゥ」から、彼らに注目していたという。日本でのブームの仕掛け人だったのだ。「帰って来たヨッパライ」はあまりにぶっ飛んだ内容の楽曲だったので、邦楽部は発売に否定的だった。だが、そのぶっ飛んだところに着目した高嶋さんは、洋楽部からのリリースを決めた。
結果、「帰って来たヨッパライ」は日本音楽史上初のセールス枚数100万枚突破のミリオンセラー・シングルとなった。このレコードが発売された1967年当時、シングル・レコードは10万、20万枚売れればヒットと呼ばれる時代だった。桁外れの大ヒットだったと言える。