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もらすよりタタリがこわかった

話が久方ぶりに尾籠(びろう)となるがお許し願いたい。実のところ便意は、新幹線の中から感じていたのである。しかし切羽つまるというほどではなく、ホテルに入ってからゆっくりと、という程度であった。それが、フロントでチェック・インしたとたん取材の予定がクソの予定に先んじてしまい、気がつけば京都大学の学食でランチを食っていたというわけである。

とりあえず正門から飛び出してみたは良いものの、右も左もわからない。まさか通りすがりの京大生にクソがしたいとは言えず、私はひたすら左方向に歩き出した。後にして思えば、右方向に歩けばすぐに東大路であるから、車を止めるなり喫茶店に入るなりできたのだが、なぜか左に向かってしまった。

本稿をたまたまお読みになっている京大生、もしくは近在の方は私の愚かしさを笑うであろう。そう、京大正門を東にたどれば道はただ、寮歌にも謳われた吉田山の山中に消える。

東京では町なかにそうした深い山があるなどとは考えられんのである。ましてや常緑の森があれば、そこには公衆トイレがあるであろうという予測をする。ところが、吉田山は本物の山であった。

しかもまずいことに吉田神社の神域である。自衛隊出身者の常として、野グソをたれることに抵抗は感じないが、妙に信心深いところがあるので神域を穢(けが)す勇気はない。せめて境内を脱出してから、と歩を早めれば、そろそろここいらでと思うそばから祠(ほこら)やお地蔵様が現れる。全山その調子なのである。数日間、京極夏彦を読み耽(ふけ)っていたのは私にとって不幸であった。もらすのはいやだが、タタリを蒙(こうむ)るのはもっといやだった。

ようやく吉田山を下りおえたと思ったら、真如堂(しんにょどう)の山に迷いこんでしまった。これもひたすらお堂と墓場である。いよいよ深みに嵌(は)まる感じで進めば、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の裏山に入ってしまった。

そこは黒谷(くろだに)と呼ばれる古刹(こさつ)、かつて会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職の本陣を置いた寺である。ひそかな幕末マニア、新撰組オタクである私は、襲いくる便意と感動のはざまに立ちすくんだ。

会津墓地に詣で、鳥羽伏見の戦没者墓碑の前で合掌をしながら、まことに不謹慎ではあるが秘術「木挽」を試みた。以前に本稿でも紹介したことがある便意封じの秘法である。

背筋をピンと伸ばして蹲踞(そんきょ)し、片方の踵で肛門を強く圧迫しつつ体をあたかも木挽のように前後に揺する。するとあらふしぎ、秘術の効果か神仏の霊験か知らぬが、便意は夢のごとくに去った。

しかし長い経験上、この効用がつかのまであることを私は知っている。たちまち身を翻して石段を駆け下り、丸太町通に至ってタクシーを止めた。案の定、再び便意は募ってきたが、蹴上は目と鼻の先である。ホッと胸を撫でおろす間もなく、私をシーズン・オフの観光客と睨んだドライバーは、黄信号でいちいち止まりながら商魂をあらわにする。

「お寺まいりどしたらお客さん、貸し切りがよろしおすえ。明日はどこどこお回りにならはりますのんか」

それどころではないのである。

「わかった、わかったから急いでくれ」
「おおきに。ほな、明日は何時にお迎えに上りましたらよろしおすやろか」
「そんなことどうでもいいっ!」

と―-まあこういう次第で、私はいまトイレから出て、雪を頂いた比叡山を眺めながらこの原稿を書いている。

京都という町はどうしてこれほどまで人の心を和ませるのであろうか。遥かなる時空の掌の上に、ぼんやりと座っている自分を感ずる。

(初出/週刊現代1996年3月9日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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