皇室のヒミツ、皇族の素顔

「御大礼」の馬車はどのように運ばれたのか 天皇とともに東京から京都へ

大正の御大礼で使用した御料馬車は、専用の貨車へ積み込まれ名古屋や京都まで運ばれた=写真/宮内公文書館蔵、旧汐留駅貨物ホーム(明治5年鉄道開業時の新橋駅)

皇室の重要儀式である「即位の礼」は、大正と昭和の時代には「御大礼(ごたいれい)」と称されていた。その儀式に欠かせないものの一つに皇室の御料馬車があった。その馬車のなかでも天皇が乗る「特別儀装馬車」は格別の扱いを受けていた。この二つの時代の御大礼は京都御所で行われ、御料馬車も天皇とともに東京から京都へと移動した。では、馬車はどのようにして運ばれたのか。大正の御大礼を例に、その実情を追ってみた。

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皇室の重要儀式である「即位の礼」は、大正と昭和の時代には「御大礼(ごたいれい)」と称されていた。その儀式に欠かせないものの一つに皇室の御料馬車があった。その馬車のなかでも天皇が乗る「特別儀装馬車」は格別の扱いを受けていた。この二つの時代の御大礼は京都御所で行われ、御料馬車も天皇とともに東京から京都へと移動した。では、馬車はどのようにして運ばれたのか。大正の御大礼を例に、その実情を追ってみた。

※トップ画像は、専用貨車へ積み込まれて名古屋や京都へと運ばれた皇室用馬車=写真/宮内公文書館蔵、旧汐留駅貨物ホーム(明治5年鉄道開業時の新橋駅)

馬車をどう配置するか

皇室史上、はじめてとなる長距離移動を伴う即位式は、「御大礼」という名のもとに一大国家プロジェクトとして行われた。それは天皇の移動に伴い、御料馬車も東京と京都それぞれに用意しなければならいものだった。当時の列車は、お召列車でさえ東京駅を午前7時に出発しても、名古屋駅に到着するのは16時になり、実に9時間も要した。今の新幹線と比べれば、5.4倍もの時間がかかったのだ。

このため大正天皇は、名古屋で一泊することになり、移動の馬車列も東京、名古屋、京都とそれぞれに用意する必要が生じた。天皇の馬車列には11台の馬車を必要とし、3都市合わせれば、のべで3倍の馬車や馬を用意しなければならず、到底無理なことだった。そこで、名古屋での馬車列は簡素化し、さらに東京で使用した馬車や馬を京都へ送り、再び使用することを計画した。

こうした即位式の移動に関する話は、『“神様を乗せる”鉄道車両はなぜ誕生したか「賢所乗御車」とは』(https://otonano-shumatsu.com/articles/391149)でも紹介している。

大正の御大礼で、皇居から東京駅へと向かう馬車列=写真/宮内公文書館蔵、1915(大正4)年11月6日(皇居外苑)

二度しか使われなかった馬車

皇室の御料馬車には、特別な装いの馬車がある。旧名を「特別御料儀装車」といい、現在は「儀装車1号」と呼ばれる馬車のことだ。大正天皇の御大礼(即位礼)のために用意され、その後も昭和天皇の御大礼で使用しただけという、これまでに二度しか使われていない高貴な馬車である。

この馬車は、1914(大正3)年7月に馬車職人の力柴大次郎氏、池田喜兵衛氏、有原豊次郎氏の3名によって作られ、当時の価格は1万7746円85銭だった。現在の貨幣価値に例えれば、1億2500万円くらいであろうか。屋根上には鳳凰(ほうおう)の飾りが設置され、その大きさは高さ73センチ、ヨコ85センチ、長さ87センチで、真鍮製に金メッキを施した重さ40キログラムもある豪華な装飾品だった。このような容姿から、登場時は「鳳凰車」とも呼ばれたという。

製造当初は、馬車の前方に輓馬(ひきうま)を操縦する御者(ぎょしゃ)の座席が備わっていたが、1923(大正12)年の関東大震災で車庫が崩壊し、馬車は大破した。この大修理によって、御者台は取り払われ、騎馭式(きぎょしき)という輓馬に乗った御者が馬車を操縦する方式へと改められた。

儀装車1号の大正御大礼当時の姿。車箱の右前にある一段高い位置にあるのが「御者台」=写真/宮内公文書館蔵

京都へ先回り

皇居から東京駅までの馬車列で使用した馬車は、翌日には京都の馬車列でも使用するため、大正天皇が京都へ到着する前に運び入れる必要があった。大正天皇が、1915(大正4)年11月6日の午前7時に東京駅を出発したことを見送ると、馬車は汐留駅(現在は廃止になった新橋駅近くにあった貨物駅)へと移動し、そこから貨車に載せられて京都へと向かう段取りが組まれた。

そのタイムリミットは、大正天皇が京都駅へ到着する7日の13時55分であった。これなら余裕だろうと思った方もいるだろうが、当時の貨物列車は、汐留から京都(正確には京都駅近くの梅小路駅)まで、急行貨物列車でさえも26時間も要したという。それに馬車の積み込みと積み下ろしの作業時間を加味すれば、30時間以上かかる計算になるのだ。仮に京都へ7日の正午に到着しようとすれば、汐留を6日の午前8時前には出発しなければならない。

そこで鉄道省は、専用の「臨時急行貨物列車」を仕立てて、汐留と京都を19時間で結ぶ計画を打ち立てた。汐留駅を6日の正午12時に出発し、京都駅近くの梅小路駅に7日の午前7時55分に到着させるというものだった。そうすれば、名古屋で一泊している大正天皇よりも先行して、京都へ馬車を運び入れることができたのだ。

御料馬車は、迅速かつ丁寧に1台ずつ専用の貨車へ積み込まれた=写真/宮内公文書館蔵(旧汐留駅貨物ホーム)

専用貨車の新造

これまでも、天皇や皇族の地方へのお出かけの際には、鉄道によって馬車の輸送は行われていた。その輸送方法は、屋根のない貨車にシートをかけただけという簡素な方法で運ばれていた。これは、馬車が積めるほどの大型の屋根付きの貨車がなかったためで、さすがに御大礼という行事にもなると、それではよろしくないということになり、新たに専用の貨車「シワ115形」24両を新造することになった。

そのなかの1両は、大正天皇が乗る「特別儀装馬車」を積載するためだけに造られた「シワ117号」で、室内の窓にはカーテンが取り付けられ、床には絨毯(じゅうたん)が敷かれるなど、まさに特別仕様の豪勢な貨車であった。

新製される24両の専用貨車に対して、御大礼の馬車列に使用する馬車は9種類120台にもなった。ただし、それらすべてに対して、専用の貨車を用意することは到底できるものではなかった。そこで専用貨車の使用は、天皇や皇族方が使用する4車種(特別儀装馬車、御料儀装馬車、普通御料馬車、儀装馬車)26台だけに限定し、24両の新製貨車をやりくりして輸送したのだった。

24両製造された宮廷馬車運搬車「シワ115形」。そのうちの「シワ117号」は、特別儀装馬車専用車に指定された=写真/宮内公文書館蔵
特別儀装馬車用のシワ117号の車内。窓にはカーテンと床には絨毯のようなものが敷かれ、とても貨車とは思えない豪華な内装になっていた=写真/宮内公文書館蔵
特別儀装馬車の収まりが描かれているシワ117号の車両形式図=図面/宮内公文書館蔵

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。

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