おとなの週末的クルマ考

ニーズも技術も時期尚早 販売苦戦ながらプレーリーは日産にとって『重要モデル』

2代目プレーリーは空力を追求したワンモーションフォルムで登場

初代&2代目日産プレーリーは、販売面では大きな爪痕を残すことができませんでしたが、日産にとって非常に重要なモデルなのです!!

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今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第34回目に取り上げるのは、日本のミニバンのパイオニアである初代&2代目日産プレーリーだ。

日本車が大きく進化した1970年代から1980年代初頭

1970年代にクルマは身近な存在となり、一般の家庭にも浸透してきた。筆者は両親ともクルマの運転免許を持っていなかったためクルマのない家庭で育ったが、小学生の頃に、「ワシ(広島弁で第一人称)の家はクラウン!!」と言った感じで子供同士で愛車自慢することも珍しくなく、別に肩身の狭い思いはしなかったが、ただただ羨ましかった。その時の優劣基準と言えば、高いか安いか、大きいか小さいか、カッコいいかカッコ悪いか、それだけだった。

クルマが一般化すると、趣味性だけでなく実用面でのニーズが高まり、手頃なサイズのオシャレな感じのするハッチバックが1980年代になると人気が高くなった。

コンパクトなボディに両側スライドドア+3列シートが画期的だった初代プレーリー

主役はセダン

新車販売において軽自動車比率が40%に迫ろうかという現代では信じられないが、1970年代後半から1980年代の前半の販売のメイン、つまり主役はセダンだった。大家族では、多人数で移動できるクルマのニーズも高くなる。しかし当時、多人数が乗車できるクルマは、商用バンとそれから派生した乗用ワゴン的クルマしかなかった。クルママンガの金字塔『頭文字D』(講談社)のトレノに『藤原とうふ店(自家用)』と書かれているが、1BOXカーに『自家用』と書かれていたり、ステッカーを貼っているクルマが当たり前のように走っていた。

ちなみにこの『自家用』表記を最近目にすることが少なくなったのは、今では義務化されているのは乗車定員11人以上の車両限定のためだ。

多人数乗車モデルは1BOXくらいしかなかった。写真は日産キャラバン

画期的だった多人数乗車セダン

セダンながら多人数が快適に移動できる、というコンセプトで1982年に登場したのが初代プレーリーだ。これは画期的だった。何しろミニバンの元祖と言われるクライスラーのダッジキャラバンがデビューしたのが1983年。同じ日本車の多人数乗車モデルの三菱シャリオも1983年デビューだ。

そういった意味で初代プレーリーは、ミニバンという言葉すらない時代に、乗用車ベースの多人数乗車モデルのパイオニアと言えるだろう。開発主査は、R32型スカイラインGT-Rを手掛けた伝説の伊藤修令氏だ。

初代プレーリーは、日産の小型セダンのスタンザをベースにミニバン化。乗用タイプとしては世界初となる両側スライドドアを採用し、2列シート仕様もあったが、メインは3列シートを装備していて、今のミニバンの原型とも言える。加えて初代プレーリーはピラー(支柱)のないピラーレスだったから、その解放感、乗降性の高さは特筆だった。

支柱のないピラーレス両側スライドドアを採用し乗降性は抜群

時代を先取りしすぎていた

画期的だった初代プレーリーだったが、販売面では振るわず。その要因は多岐にわたるが、まずはピラーレスによるメリットよりもボディ剛性不足というネガを抱えていた。残念ながら筆者は初代プレーリーに乗ったことはないが、『ボディがよれる感じがする』というのが当時の共通見解だったようだ。

3列シートだが、その3列目は強烈に狭い!!

あとはデザイン。今見るとボクシーで味があるように感じるが、当時としては武骨で不細工と言われ酷評されていた。カッコ悪いクルマは売れない、というのは今も昔も同じだ。

技術的にも問題はあったのだろうが、1980年代に入って日本車は一気に高性能化。そんな時代背景もあり、時代を先取りしすぎていた、というのが販売面で苦戦した最大の要因のように思う。

その一方で商魂たくましい日産は、1980年代中盤以降のスキーブームに乗じ、イタリアの『NORDICA(ノルディカ)』をコラボして特別仕様車を限定販売。当時大学生だった筆者の日産党の友人が欲しがっていた(結局買わず)。ノルディカといえば、当時の大学生の間でも人気ブランドで、『NAEBA』、『APPI』などとともにNの上向き矢印がトレードマークのロゴステッカーをクルマに貼るのが流行っていたのも懐かしい。

NORDICAエディションは4WDがベースでスキーヤーに人気。配色もナイス

東京モーターショーでコンセプトカーを発表

前述のとおり、初代プレーリーは販売面で成功はしなかったが、日産は乗用車ベースの多人数乗車モデルというコンセプトに可能性を感じていた。そのためプレーリーは単発で終わることなく次期モデルが開発されていた。そして1988年9月にフルモデルチェンジを受けて2代目がデビュー。

DURA CONCEPTは2代目プレーリーのデザインコンセプト

日産は東京モーターショー1987にいろいろな注目のコンセプトカーを公開。日産ブースの超目玉はミドシップ4WDスポーツのMID4IIだったが、エアロフォルムを纏った『JURA CONCEPT』も公開。このJURA CONCEPTは、エアロダイナミクスにこだわったモノフォルムにスライドドアを装備した2列シートモデルで3列シートモデルのプレーリーとは違ったが、このデザインこそ2代目プレーリーを示唆するモデルと言われていた。

東京モーターショー1987では斬新なス―ペース、エクステリアが注目された

コンセプトは踏襲するもデザイン一新

日産は2代目プレーリーを登場させるにあたり、徹底的に初代のネガを潰してきた。その最大のポイントが酷評されたエクステリアデザインの改良だ。実際に登場した2代目プレーリーは、当然JURA CONCEPTのままとはいかないまでも、丸みを帯びた新しさを前面に打ち出して登場。

クルマ雑誌の『ベストカー』でも、「これほど劇的に魅力アップしたクルマも珍しい」と高い評価を与えていた。当時としては確実に新しかった!! 

初代とは対照的にエアロフォルムで登場した2代目プレーリー

不格好だった初代から2代目で美しく生まれ変わったプレーリーを、幼鳥時代に醜かった白鳥の子どもが、輝くばかりに美しい白鳥となるというアンデルセン童話の『みにくいアヒルの子』になぞらえて、『アンデルセン型フルモデルチェンジ』と称されたりもしていた。

すでにアメリカではミニバンという言葉が誕生し、人気モデルとなっていたが、2代目プレーリーについて日産はミニバンという言葉は使わず、あくまでもセダンの延長で、多人数が乗れるセダンとしてアピールしていた。初代同様に2列シートの5人乗り仕様もラインナップしていたが、あくまでも主役は3列シートモデルで変わりなし。

インパネも乗用車的で使いやすさも兼ね備えていた

ボディ剛性も確保

それからユーザーをがっかりさせていたボディ剛性のなさについても、ピラーレスというコンセプトを初代から踏襲しながらも大幅な補強を施し、『グニャグニャボディ』の汚名を返上。

実は1990年に筆者は『ベストカー』でアルバイトを始めたのだが、その時の社用車として2代目プレーリーが使われていて、その時に初めて運転した思い出深いクルマ。初代は素人でもボディ剛性のなさがわかる、と言われていたようだが、2代目はおおむね不満のないレベルだったと思う。

この角度から見るとワンモーションフォルムがよくわかる

背が高いのでロールは大きめ

2代目プレーリーは、当時の日産の主力小型セダンのブルーバード(8代目・U12型)がベースとなっていた。プレーリーはブルーバードに比べて背の高いが、コーナリング時に車体が必要以上に不安定になるとか、最悪破綻するといったことはなかった。ただ、サスペンションが柔らかいので、初めてワインディングを走った時はロールが大きいため、けっこうビビった。

ブルーバードで初登場した日産の4WDシステムのATTESA(アテーサ)がプレーリーにも設定され、降雪地域でのニーズにも応えた。ATTESAという字面、アテーサという響きとも今でもカッコいいと思う。日産って昔からネーミングセンスが抜群だと感心させられる。

初代とは比べようもないくらい広くなった3列目シートの足元スペース

エンジンは初代が1.5L、1.8L、2Lだったのに対し、2代目は2Lと2.4Lを搭載。特に2.4Lはトルクが太いので、多人数乗車時、積載物が多い時でもストレスなく走ることができた。逆に言えば、2Lでは少々非力と感じることもあった。当時は2Lと2.4Lでは、5ナンバーと3ナンバーの大きな壁があったため、人気は2Lモデルだった。ベストカーの社用車も2Lの7人乗りだった。

この社用車プレーリーだが、一般家庭のように多人数乗車目的で使われることは少なく、撮影機材、ゼロヨンテストなどの光電管、バッテリー、計測機器などを運搬するのに重宝していた。ただし、肝心のラゲッジスペースが、リアのストラットサスの取り付け部分が出っ張っていて、横方向の自由度が制限され、もったいないなぁと思った。あと、フル積載時には「遅い!!」だった。

初代では3列シートの3列目は極狭(ごくせま)と酷評されていたが、全長を30cm程度延長したことで広くなっていたことをフォローしておく。

2列目はアレンジ可能だった

プレーリージョイに車名変更

徹底的なネガ潰しによって魅力一新した2代目プレーリーだが、強敵が出現。そう、乗用タイプミニバンブームのきっかけとなり、王者に君臨していた初代ホンダオデッセイだ。オデッセイはプレーリーとは違いリアはスライドドアではなくヒンジドアを採用。あくまでも乗用車感覚、セダン感覚で運転できる多人数乗車モデルということで大ヒット。

乗用タイプミニバンのキング、初代ホンダオデッセイは1994年デビュー

個人的にはお世辞にもデザインがいいとは思わないが、ホンダの作った多人数乗車モデルという付加価値もヒットの要因になっているはずだと考える。

オデッセイが登場したのは1994年。2代目プレーリーは88年デビューだから、当時の日本車はほぼ4~6年サイクルでフルモデルチェンジしていたことを考えるとモデル末期。日産はフルモデルチェンジではなくビッグマイチェンで対抗。車名もプレーリーから『プレーリージョイ』と変更してリフレッシュを図ったが、デザインも急造感丸出しでアンバランス、乗り味、室内はライバルに比べて古さを隠せず、乗用タイプミニバンブームの波に乗ることはできなかった。

マイチェンでプレーリージョイとなってリフレッシュしたが奏功せず

極寒の地でEVが大活躍!!

プレーリージョイになっても販売は上向かなかったのだが、結果論として日産にとっては非常に重要な意味を持つモデルになった。日産は当時EVの開発を行うに際し、そのベースモデルをプレーリージョイに決定。バッテリーを搭載するにはスペースが必要なため、日産にとっては打って付けだった。

1990年にソニーが世界で初めてリチウムイオンバッテリーを実用化することに成功。それに対し日産は、「ソニーの公式発表の翌日から自動車への適用を検討」と積極的で、1992年にソニーと提携し、開発を始めたのがプレーリージョイEVだ。そして、1996年に法人向けに30台がリースされた(一般販売はされず)。リースゆえ不具合があれば回収することも可能なので、実験的なクルマではよくある手法だ。

極寒の地のノルウェーで大活躍したプレーリージョイEV

このプレーリージョイEVは、「国際北極観測隊が、ノルウェーの基地で使える電気自動車を探している」と聞きつけた日産は、極寒テストとして最適と判断してプレーリージョイEVを貸与。6年間にわたり、極寒の地で活躍したという。

日産の電気自動車は、その後ルネッサベース、ハイパーミニ、キューブベースなどいろいろ開発を進め、リーフ登場に至るわけだが、リチウムイオンバッテリーを搭載したプレーリージョイEVでのブレークスルーが大きな意味を持っているのは明らかだ。

プレーリージョイEVはソニー製のリチウムイオンバッテリーをいち早く搭載

初代&2代目の存在意義は大きい

そのプレーリーだが、EVの貢献度とは裏腹に迷走を続けたのは皮肉なもので、プレーリージョイの後は、3代目として1998年に登場したモデルはプレーリーリバティとサブネームを変更。そして2001年のマイナーチェンジでは車名からプレーリーの名が消えててリバティとなり、プレーリーの車名が消滅してしまった。2004年にはラフェスタとなった。

販売面では日産の思惑どおりにはいかなかったが、多人数乗車モデルのノウハウ、電気自動車のノウハウ、技術研究の礎などなど、初代&2代目プレーリーの存在意義は大きい。

プレーリーリバティからリバティとなりプレーリーの車名が消滅

【2代目日産プレーリーJ7 ATTESA主要諸元】
全長4350×全幅1690×全高1650mm
ホイールベース:2595mm
車両重量:1350kg
エンジン:1973cc、直列4気筒SOHC
最高出力:91ps/5200rpm
最大トルク:14.8kgm/2800rpm
価格:199万7000円(4AT)

【豆知識】
三菱自動車が1983年に登場させた3列シートミニバン。小型車のトレディアをベースとしている。小さなボディに広いスペースを確保というのがセールスポイント。1977年に開発が始まったというから、新たなジャンルのクルマを登場させるに当たり時間をかけていたことがわかる。市販化を前に三菱は1979年に開催された東京モーターショーでは、SSW(スーパースペースワゴン)というコンセプトカーを登場。初代は1983~1991年まで販売され、三菱のフルラインターボ戦略により1988年には1.8Lターボが追加され、ライバルであるプレーリーに差をつけた。

角ばったデザインは初代プレーリーと同じだが、デザインはシャリオのほうが洗練されていた

市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/NISSAN、MITSUBISHI、ベストカー

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