1986年に登場した初代日産テラノは、日産デザインのアメリカ拠点のNDIが手掛けた斬新なデザインで人気となりました
画像ギャラリー今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第48回目に取り上げるのは1986年にデビューした初代日産テラノだ。
ホンダと日産の統合が決裂!?
2024年12月23日にホンダ技研工業(以下ホンダ)の三部敏宏社長、日産自動車(以下日産)の内田誠社長、三菱自動車(以下三菱)の加藤隆雄社長が出席のもと、3社合同会見が開催された。3社が出資する統括会社を立ち上げ、経営統合に向けた協議を始めることに合意したと発表。2024年の年末はこの話題に日本が激震。
しかし、2025年1月中旬に三菱が経営統合には参画しない、というスクープが流れ暗雲が立ち込めたと思ったら、その舌の根も乾かぬうちに、ホンダと日産の統合は破談という情報が出て日本準を驚かせている。この原稿を書いている時点では、ホンダ、日産、三菱の3社から経営統合に関して何の正式発表もないが、破断で間違いないだろう。日産が決算発表をする2月13日前後に3社合同、またはそれぞれ単独で何らかの発表があるだろう。
現在の日産が経営難に陥っている要因のひとつに、「ユーザーが欲しいと思うクルマがない」ということが指摘されている。筆者もそうだと思う。だから今回取り上げる初代テラノのような、”日産にしかできなかったクルマ”というのが、よりいっそう懐かしく感じてしまう。
1980年代はクルマが多様化
日産の初代テラノがデビューしたのは1986年。白い4ドアセダンが大流行した『ハイソカーブーム』が続いている時。同時に日本のスポーツモデルは高性能化が著しく進んでいった。技術面ではトヨタが推進したDOHC戦略の『ツインカム24』、ファミリアが先鞭をつけたフルタイム4WD、後輪を操舵する4WSが登場したもの1987年(機械式は2代目ホンダプレリュード、電子制御は5代目マツダカペラがそれぞれ初)だ。
そのほかで顕著だったのは、初代三菱パジェロ(1982年デビュー)、初代トヨタハイラックス(1984年デビュー)の人気により、オフロードタイプのクルマが着実に人気を得ていたことだ。今で言うSUVなのだが、当時はクロカン(クロスカントリーカーの略)と呼ばれていた。
サファリより小さいクロカンに初挑戦
本流ではないもの初代パジェロ、初代ハイラックスサーフの人気によって日産は将来的に
成長するカテゴリーと読み、両車に対抗するモデルとして登場させたのが初代テラノだ。日産は当時本格的なオフロード走行に耐えるクロカンとしてサファリをラインナップしていたが、こちらはランドクルーザーの対抗馬で、そのサファリよりも小さいサイズのクロカンは初めてのチャレンジとなった。
オフロード性能と街乗り性能を両立
日産は初代テラノを開発するにあたり、完全新設計とするのではなく、ダットサンピックアップ4WD(D21)をベースにクロカン化することを決定。限られた予算のなかではこれが最適解だった。この手法はハイラックスピックアップをベースにクロカン化したハイラックスサーフと同じだ。
しかしなんだトラックベースか、と侮るなかれ。初代テラノのコンセプトは、「オフロードも街中も快適に走れる」というもので、快適な乗り心地を確保することが絶対命題だった。それに合わせて、フロントサスペンションは乗り心地とロードホールディング性のよさで定評のあるダブルウィッシュボーンをダットサンピックアップから流用したものの、リアサスペンションは当時開発中だったサファリ(Y60型・1987年デビュー)用の5リンクを先行投入している。これにより、オフロードでのトラクション性能が向上と街中での快適な乗り心地を両立させていた。
洗練された都会的なデザイン
初代テラノの真骨頂と言えば、そのエクステリアデザイン。ライバルのパジェロ、ハイラックスとも骨太で頑強なイメージのあるデザインを採用し、それがユーザーにウケていたが、日産はまったく違ったコンセプトで開発を進めた。
初代サファリの都会的で洗練されたデザインを手掛けたのは、日産デザインインターナショナル(NDI)。ちなみにNDIは、現在日産デザインアメリカ(NDA)となっている。日産は、クロカンのノウハウが豊富な本場アメリカでデザインすることを決定したのだ。
まず目を引くのがリアの三角窓。これだけでも斬新なのだが、クロカンとしては異例なフラッシュサーフェイス化されたボディは、前後の力強いフェンダーラインと融合し、取って付けた感は皆無。
四角い=武骨となりそうだが、まったく逆の効果(洗練)持っていたのが初代テラノの凄いところで、当時、ユーザーの間でも初代テラノの洗練された都会的なデザインは話題になっていた。筆者の職場の先輩も初代テラノの後期モデルを新車で購入(1993年)。「ハイラックスサーフとどっちにするかかなり迷ったけど、テラノのカクカクした四角いデザインが購入の決め手となった」というように、四角いのに洗練されたデザインは好評だった。
ノーズ先端の穴が素敵!!
街中で武骨なクロカンを乗ることがステータスだった時代に突如洗練されたデザインが登場したのだから日本のユーザーにとってインパクト抜群だったのは当然だろう。当時大学1年生だった筆者も衝撃を受けた。クロカンには興味がなかったが、初代テラノのデザインには驚いた。
初代テラノのデザインで一番驚いたのは、フロントノーズ先端の穴(細かくてすみません)。正式には3連スリットと言ったほうがいいのかもしれないが、これがポルシェ924カレラGTのノーズ先端のエアダクトのように見えて、スポーティかつレーシーな雰囲気に感じていた。
エクステリアの印象に大きく関係する背面タイヤ。これはありとなしが選べたが、当時のクロカン=背面タイヤのイメージもあり、多くのユーザーはタイヤを背負っていた。洗練されたデザインに武骨な背面タイヤというギャップも初代テラノならではだろう。
サイズ以上にデカく見えた
初代テラノのボディサイズは全長4365×全幅1690×全高1680mm。原稿を書くに当たりスペックも調べ直したのだが数値を見てビックリ。当時は物凄く大きく感じたものだが、何より驚かされるのが5ナンバーサイズの全幅ということ。全長は現行モデルでいうとホンダヴェゼル(4330mm)と大差ないレベル。ただボディは5ナンバーサイズだったが、エンジン排気量が2.7Lだったため3ナンバー登録だった。
初代テラノが数字以上に大きく見えたのは、デザインにも関係がありそう。車体の前後を絞り込んでいないほぼほぼスクエアだったことが起因しているだろう。これは当時のトヨタクラウン、日産セドリックも5ナンバーサイズの全幅だったがとても大きく威厳があるように見えたのと同じなのだろうが、改めて今の日本車が肥大化していることを痛感する。
新車で買ったオーナーの証言
前述の職場の先輩に、オーナーだからこそわかることを聞いてみた。
【乗ってみて意外といいと思ったこと】
■全幅1690mmなので取り回しが意外とよく、さらに四角いので、見切りがいい、アイポイントが高いので運転しやすいし疲れない
■室内は広く、ラゲッジにも荷物はたっぷり積めて大満足!
■リアドアがガラスハッチで便利!
【乗ってみて意外と悪いと思ったこと】
■パワー不足で、走行性能(走り)が悪い(涙)。高速道路の長く、なだらかな登り区間で、走行車線をず~っと、50~60km/hで走行し、辛かった。なにせ、アクセルベタ踏みでも、「ぐお~っ」とエンジンが唸るばかりで、スピードが出ない。もう30年ほど前の話だけど、今でも忘れない。
■リアドアを開ける際、(1)スペアタイヤのバーを横に大きく広げて、(2)リアドアを上に開ける……という作業になり面倒。しかも、スペアタイヤのバーを横に広げるために、おおよそ1m近くの隙間がないとダメなので、これも面倒。
日産車が話題の中心だった!?
初代テラノのTV CMは、何パターン化創られていたが、親子がテーマのものにスポットを当てたい。子どもの「今度どこに連れてってくれるのだろう」というセリフを発し、初代テラノの万能性をアピール。オフロードを激しく走るシーン、親子並びカット、カヌーシーンなどが映し出されている。当時の日産CMに必ず挿入されていた、『1/100から1/1000へ』(技術の向上をアピール)、そして『あ、この瞬間が、日産車だね。』と続き、日産が1985年から1991年くらいまで使用していたキャッチコピーの『Feel the Beat もっと楽しく 感じるままに 技術の日産』で締めくくられている。
『あ、この瞬間が、日産車だね。』というキャッチは、日産の狙いどおりに日産車の魅力が感じれた時も使われていたが、それよりも「エアコンが壊れた」、「ヘッドライトがタマ切れした」、「整備性が悪い」などなど、素人も玄人もネガな点で使われていたのが懐かしい。最近では『やっちゃえ日産』をもじって『やっちゃった日産』と揶揄されるのに似ているのかも。まぁ、それだけ日産車がユーザーの話題の中心にあった証拠でもある。
ユーザーのニーズに合わせて改良
職場の先輩の証言でもいいところ、悪いところのあった初代テラノは1986年にデビューして、1995年まで販売された。これは日本の話で、実はこの初代モデル、2006年までインドネシアで生産されて東南アジア地域で販売されていた。そのため、インドネシアなどでは今も現役で走っている姿を目にする。
日本の話に戻そう。初代テラノは2ドアモデルのみで、エンジンは2.7LのOHVディーゼルを搭載して登場。その後クロカンブームの盛り上がりもあり、ユーザーのニーズに合わせて仕様を追加して販売増強に力を入れた。
エンジン改良、ボディ追加で魅力アップ
エンジンで言えば、ライバルに対して見劣りするということで、1987年にV6、3LのSOHCを追加してガソリンエンジンが欲しいというニーズに応え、1988年にディーゼルターボを追加してパワーアップのニーズに応えた。
一方、2ドアモデルが主流だったクロカンも人気が4ドアモデルに移行しつつあるのを認識した日産は1989年に4ドアモデルを追加。ただ4ドアモデルは、リアの三角窓がなく普通っぽいデザインになったのは残念。
そして、1993年のマイナーチェンジでは、大迫力のオーバーフェンダーを装着したワイドボディを追加するなど、あの手この手で改良していった。
RVブームでは苦戦を強いられた
改良により進化を続けた初代テラノ。1980年代中盤以降の第一次クロカンブームの主役に君臨し、日本のユーザーに新たな楽しみを提供してくれた。しかし、1991年にデビューした2代目三菱パジェロの登場により勃発したRVブームでは苦戦。
そのひとつは、クロカンのデザイントレンドが洗練より迫力重視になった点は否めない。立派なグリル、目立つ顔、存在感のある肉感的なリアなどに象徴されるデザイントレンドの前にテラノは苦戦を強いられた。
それから、1986年デビューで、しかもベースはさらに古いダットサンピックアップという点で並みいるライバルを相手に設計の古さが隠せなくなってしまった。
モデル末期では苦戦したが、チャレンジングなモデルで、しっかりとユーザーの心をつかんだ初代テラノの功績は評価すべきだろう。コスト計算もしっかりされていて、ユーザーのニーズに合わせて細かく改良&追加してきたその姿勢は今の日差にはない。
それが今後再建を目指す日産にとって、初代テラノのようなモデル、初代テラノで実践した姿勢が必要になってくるはずだ。
【日産テラノR3M主要諸元】(正式にはMは3の左上に入る)
全長4365×全幅1690×全高1680mm
ホイールベース:2650mm
車両重量:1700kg
エンジン:2663cc、直4OHVディーゼル
最高出力:85ps/4300rpm
最大トルク:18.0kgm/2200rpm
価格:233万3000円
【豆知識】
日産デザインインターナショナル(NDI)は1979年4月に設立された日産デザインのアメリカ拠点。前衛的なコンセプトカーをデザインする傍ら、1986に登場した初代テラノ、クーペボディとキャノピーボディをそれぞれ載せ替えできるエクサをデザインしたので有名。日本では載せ替えが認可されなかったのが残念。そのほかNXクーペ(1990~1994年)、レパードJフェリー(1992~1996年)などもデザインを担当。現在は日産デザインアメリカ(NDA)として、日産車のデザインを手掛けている。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/NISSAN、MITSUBISHI、PORSCHE