おとなの週末的クルマ考

クルマって難しい 見てヨシ乗ってヨシでも売れなかった三菱FTO

三菱FTOは今見ても美しい2ドアクーペで、画期的な技術も搭載されていました

三菱FTOはGTOの弟分として1994年にデビューしました。日本車離れしたエクステリアデザイン、シャープなハンドリングなどが魅力です。

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今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第52回目に取り上げるのは1994年にデビューした三菱FTOだ。

三菱は1994年に国内3位に躍進

三菱自動車(以下三菱)は1990年代に入り、2代目パジェロのメガヒットしたのを皮切りに2代目シャリオも人気で個性的なセダンのギャランも安定した販売をマークするなど好調。税制改正にいち早く対応した初代ディアマンテも大ヒット。

その一方で国内の自動車メーカーがバブル期に設備投資などを増やしていたなか、規模拡大に慎重姿勢を貫いていた。規模拡大組がバブル崩壊の余波をもろに受け苦戦するなか、慎重派の三菱はその影響が小さく、国内シェアを伸ばしてホンダとの国内のシェア3位争いが激化。

1990年にデビューしたFFのミドルクラスセダンのディアマンテがスマッシュヒット

1990年の段階で国内シェアはホンダ11.0%に対し三菱は7.6%。それが1994年にはホンダ9.9%に対し三菱は10.0%となり国内3位に大躍進。ホンダがシェアを落とす一方で三菱が急伸した結果、わずか4年で逆転したというわけだ。1993年にデビューしたランサーエボリューションは1994年1月にエボIIへと進化し、その魅力にユーザーが気付き始めていた頃。WRC(世界ラリー選手権)への本格参戦も開始するなど、今回紹介するFTOは三菱がイケイケ状態の1994年10月にデビュー。

ランエボII登場で、三菱ファンは激増

GTOに続きFTOも復活!!

三菱のスポーツ&GTの礎といえば、1970年にデビューしたギャランGTOだ。ダックテールが特徴的な高性能GTで三菱車のイメージアップに大貢献。その翌年にギャランGTOの弟分としてデビューしたのがギャランクーペFTOだ。GTOは高くて手が出ないという若い世代に向けた手頃なGTというキャラクターだった。

1990年にギャランのサブネームが外れていたが、三菱のビッグネームのGTOが復活。その4年後の1994年にFTOも復活。その背景には三菱のニューカー戦略があった。三菱はパジェロ、シャリオなどのRV系、ミラージュ、ランサーの小型車とともにスポーツクーペを第3の柱にしていきたいことからFTOの開発がスタートした。

FTOは三菱の新車戦略の要と考えられていた

車名に込められた三菱のこだわり

復活したFTOだが、ギャランクーペFTOはイタリア語のFresco Turismo Omologataの頭文字をとった車名で、『新鮮なGTカーとして公認されている』という意味を持つ。つまり若々しいGTカーであることを車名でアピールしたのだ。

それに対し復活したFTOは、本家と同じ略語ではなかった。新生FTOはイタリア語ではなく英語のFresh Touring Originationの頭文字をとったもので、『若々しいツーリングカーの創造』という、意味自体はほぼほぼ同じながら、単に車名を復活させたのではなくチャレンジしますという三菱のアピールを感じる。

初代FTOはギャランGTOの弟分として若者から人気となった

三菱渾身のスペシャルティクーペ

三菱の新型クーペのFTOは、RX-7のようなピュアスポーツではなく、スペシャルティカー。当時の日本のスペシャルティカーと言えば、トヨタセリカ、日産シルビア、ホンダプレリュードが定番。一世を風靡した『デートカー』も死語状態となり、1980年代やバブル期のように爆発的に売れていたわけではないが、一定数の需要があってそれを御三家が分け合うかたちとなっていた。そんな強敵、ビッグネームが独占するマーケットにFTOは新規参入となった。

ビッグネームのセリカに挑む新参のFTO

当時の日本のクーペで出色のデザイン

ボディサイズは全長4320×全幅1735×全高1300mmでホイールベースは2500mm。当時話題にもならなかったし、どうでもいいことなのだがFTOのボディサイズは全高を除きフェラーリ328(全長4260×全幅1730×全高1130mm)と非常に近い。これについては、FTOうんぬんよりも、フェラーリ328のコンパクトさに驚かされる。

全高はFTOよりも低いが、全長、全幅はほぼ同じフェラーリ328

ショート&ワイドなプロポーションは日本車のライバルにはない斬新さがあった。そう、FTOの最大の魅力は、今見ても古さを感じさせないエクステリアデザインにあった。ショート&ワイドのプロポーション、フロントからリアにかけてシャープにせり上がる造形は動的な美しさを持っていた。ボリューム感のあるフロントフェンダー、スラント(傾斜のある)リアエンドなども当時の日本車にはないカッコよさがあった。運動性能を高めるために前後のオーバーハングは極端に短くされていたのは機能とデザインの融合だ。

フロントからリアにかけてせり上がるラインがカッコいい

デザインに最大限の賛辞

当時FTOのデザインが気に入って即買いした、という人も多く実際に筆者の大学時代の友人の2人がFTOのデザインに魅了されて新車で買った。1994年と言えば筆者は28歳。30歳前の独身男性がデザインに憧れて2ドアクーペを買う時代だったのが懐かしい。

FTOは「デザインだけでも買う価値あり」と言われていたが、これはスポーツ&スペシャルティに対する最大の賛辞だ。

当時日本車離れした秀逸なエクステリアだが、FTOよりもちょっと前にイタリア本国デビューしたクーペフィアット(日本での正規販売は1995年から)に似ていることから、「FTOはクーペフィアットの劣化版」と揶揄されることもあったが、クーペフィアットがそれほど売れたクルマではないため、オーナーで気にする人は皆無。

FTOと似ていると評判だったクーペフィアット

三菱のエンジン技術が凄い

FTOに搭載されたエンジンは1.8L、直列4気筒SOHC(125ps/16.5kgm)、2L、V6型6気筒DOHC(170ps/19.0kgm)、2L、V6型6気筒DOHC+MIVEC(200ps/20.4kgm)の3種類。2Lクラスのスペシャルティカーで唯一のV6エンジン搭載となった。

三菱は、1991年にV型6気筒エンジンとしては世界最小排気量の6A10型エンジンをランサー6に搭載しているように、小排気量V6は三菱の十八番。FTOの2L、V6エンジンの型式は、6A10型と同じ系列で排気量違いの6A12型。

2Lで200psを搭載するV6MIVECエンジン(6A12型)

注目はV6のMIVECエンジン。長くて申し訳ないがMIVECはミツビシ・インテリジェント&イノベイティブ・バルブタイミング&リフト・エレクトロニック・コントロールシステムの略。バルブの開閉タイミングの制御に加えて低速用カムと高速用カムを切り替えることで吸排気バルブのリフト量を変える技術で、ホンダが先鞭をつけたVTECと同じ技術。

VTECの登場はセンセーショナルだったが、VTECに対抗するエンジンをいち早く市販化したのはトヨタでもホンダでもなく三菱だった。ミニカダンガンの5バルブエンジン、前述の小排気量V6など、三菱のエンジン技術は昔から高かった。

MIVECにより高回転化が可能になり、2Lでリッター100psオーバーとなる200psを実現した。当時のMIVECはパワー/トルクを稼ぐ高性能追求のための技術だったが、現在では燃費性能、環境性能を追求するための技術として採用され続けている。

リアシートは狭いが、フロントの適度なテイト感がドライバーを刺激する

ポルシェを超えた!?

FTOのトランスミッションは2~4速をクロス化した5速MTと4速ATなのだが、4速ATは日本車初のマニュアルモード付きで、三菱ではINVECS-IIスポーツモード付き4ATと命名していた。Dレンジの左側に+と-があり、シフトレバーを前に倒すとシフトアップ、後ろに倒すとシフトダウンとなっていた。

AT操作に合わせて+と-が配置されているが、サーキット走行などでのGのかかり方と逆になるため違和感があるが、まぁすぐに慣れる。

画期的だった日本初のマニュアルモード付きATのINVECS-II

MTのように任意のギアが選べるATはポルシェ911のティプトロニックが世界初。レスポンスがイマイチ、6000回転くらいまでしか引っ張れないと不評だったが、INVECS-IIスポーツモード付き4ATは、しっかり8000回転まで引っ張れたしレスポンスも上々。MTのようなダイレクト感はなかったがこれは仕方がない。デビュー時には4速ATだったが、1997年のマイナーチェンジで5速ATへと進化。

このINVECS-IIスポーツモード付き4ATの凄いところは、三菱お得意のファジー制御に加えて、学習機能が備えられていたこと。ドライバーの運転癖を学習してDレンジ固定の時にドライバーの運転特性に合わせて自動でシフトアップ&ダウンをしてくれる優れものだった。

このINVECS-IIスポーツモード付き4ATの技術力が、『1994~1995年日本カー・オブ・ザ・イヤー』受章の大きな要因となったのは間違いない。

ATながらMTのように好きなギアを選べる

足回りはFTO用に専用チューン

FTOはミラージュ/ランサーのセダン用シャシーに専用ボディが与えられている。ちなみに兄貴分のGTOはディアマンテとシャシーを共用。ただし、ミラージュ/ランサーのシャシーにカッコいいボディを載せただけではない。

サスペンション形式はフロントがストラット、リアがマルチリンクとベースのミラージュ/ランサーと同じだったが、フロントのストラット取り付け部にサブフレーム構造として剛性アップ。リアには新たなリンクの追加、ブッシュ類の見直しなどによりタイヤの接地変化を抑えるなど、ハードなスポーツ走行に堪えるだけの強化が施されていた。

FTOはミラージュ/ランサーベースながら足回りを大幅に強化

FFのスペシャルティカーで最速

デザインコンシャスなFTOは、見た目だけのスポーティカーと思われがちだが、走らせても凄かった。リッター100psを超える2L、V6MIVECエンジンを搭載してライバルよりも軽い1170kgの車重ということもあり加速性能も優れていた。

ライバルが直4エンジンを搭載していたのは、フロントを重くしたくないという理由もある。FTOのボディサイズなら、最適解は直4というなか、三菱はプレミアム性を重視してFTOのスポーツモデルにV6を搭載。

インテR登場までFFスペシャルティカーで最速の座に君臨

FF(前輪駆動)で重いV6エンジンを搭載しているということでハンドリング、回頭性が懸念されていたが……。試乗してそれはまったく杞憂に終わった。実際に走らせてみると前述のとおり強化されたサスペンション、高いボディ剛性かつショートホイールベースによって、面白いように曲がる。タイヤがしっかりと接地していてトラクションの抜けも少なく、重いV6の存在を感じさせない。

車検証で確認すると、FTOの前後重量配分は前66:後34で、初代ホンダシビックタイプR(EK9型)の前67:後33よりもフロントヘビーではない。

FTOはナンパグルマに見られがちだが、1995年にホンダからインテグラタイプRが登場するまで、2LクラスのFFスペシャルティカーで最速モデルに君臨していた。

ラリーアートカラーが懐かしい。ジムカーナなどのモータースポーツでも活躍

TVのCMがカッコよかった!!

FTOのキャッチフレーズは『この運動神経は、ふつうじゃない』というもので、キャッチコピーに偽りなし。そして20世紀はTVこそ万人向け最高のメディアと言われた時代で、TVで流れるCMは常に話題になっていた。

FTOのTV CMで印象的だったのはイメージソングとして使われていたフライングキッズの『セクシーフレンド・シックスティナイン』(アルバム『コミュニケーション』の収録曲・1994年)。いや~、これがカッコよかった。ラップ調で始まり、曲中はギターとドラムの掛け合いが心地よくてファルセットの使い方も絶妙。現代のコンプラ基準からすれば歌詞は少々エグいけど、当時は若い男たちの欲望をカッコよく歌い上げて魂に響いていた。

フライングキッズのイカ天時代(初代グランドキング)からのファンも、FTOのCMで存在を知った人も、この曲と言えばFTO、FTOと言えばこの曲という感じで相思相愛の関係だった。個人的に大ヒットした有名なデビュー曲の『幸せであるように』より好き。シングルカットしなかったのはもったいない。

スパッと切り立ったリアが斬新。この角度からはフェンダーの盛り上がりがよくわかる

販売面では苦戦したが三菱の重要なモデルだった

FTOはデビュー翌年の1995年に2万台強を販売し上々のスタートを切ったが。その後は毎年のように前年比50%状態が続き、2000年に兄貴分のGTOとともに生産終了の憂き目となった。その間の累計販売台数は約3万8000台で、これはすなわちデビュー後3年目以降は凋落の一途をたどったということ。

車両価格は166万~239万7000円(デビュー時)と、ライバルと比べても安いくらいだったが、それも販売には結びつかなかったのが悲しいところ。

スポーツモデルのバージョンRの大型リアスポイラーが人気だった

FTO、GTOが生産終了になった背景には、厳しくなる側面衝突の安全基準があった。売れてないFTO、GTOを適合させてもコスト的に見合わないという判断から三菱は生産終了を決断。両車が売れていれば、存続したはずだし、噂されていた4WDモデルの追加があったかもしれない。

販売面では成功したとは言えないFTOだが、三菱は次世代を見据えた開発車両にFTOを選び、EVの開発を進めるなど、三菱にとっては重要なモデルだった。

現在の三菱のラインナップから考えると、たとえBEV時代になってもFTO、GTOが復活する可能性を見出せないのが寂しい。

三菱のBEVの研究に大きく貢献したFTO EV

中古車は高騰していない

最後に中古車情報。1990年代の日本のスポーツ&スペシャルティカーの中古車の高騰化が顕著だが、FTOに関してはまったく手が出ない、というほどの高騰ぶりではなく100万円前後から探すことができる。上限は250万円程度。ただし同じ時代の丸4灯ヘッドライトのセリカ(ST200型)、シルビア(S15型)に比べるとタマ数はかなり少ない。王手の中古車サイトなどで検索しても20台前後といったところ。

オススメはMIVECエンジン搭載の5MT。イージーに乗りたいというならINVECS-IIとなるが、その際は1997年のマイチェン後の5ATモデルを選びたい。4速より5速が圧倒的に気持ちよく走れる。

古いクルマに共通する、サビ、オイル漏れ、ATならスベりなどは要チェック。

初期モデルは30年が経過。内装パーツは欠品が多いので購入時に要チェック

【三菱FTO GPX主要諸元】
全長4320×全幅1735×全高1300mm
ホイールベース:2500mm
車両重量:1170kg
エンジン:1998cc、V6DOHC
最高出力:200ps/7500rpm
最大トルク:20.4kgm/6000rpm
価格:228万7000円(5MT)

後期モデルはバンパーのデザインが変更されている

【豆知識】
三菱は三菱重工時代の1965年から国内ラリー活動を開始。そしてそれからわずか2年後には国際ラリーの舞台へと踏み出した。その後国内/国際ラリーで活躍したことによってラリーの三菱のイメージを確立した。そんな三菱は1977年いっぱいでワークス体制によるラリー活動を休止。三菱のラリー活動が復活したのは1981年で、WRCとともにパリ・ダカールラリーに挑戦を開始した。三菱にとってターニングポイントとなったのは1990年代初頭。ギャランVR-4と実戦投入されなかったがスタリオン4WDによりランエボシリーズが誕生することになった。そして2005年かぎりでワークス撤退するまでランエボシリーズ、ランサーWRCでWRCを席巻した。

1990年代前半にWRCで強い三菱の礎を築いた

市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。

写真/MITSUBISHI、ベストカー

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