地形の起伏をかわすため、中目黒駅は開業当初から高架駅だった=写真/宮田道一コレクション
1930(昭和5)年ごろの都立大学駅。当時は「柿ノ木坂駅」という名で、駅の場所は今よりも渋谷側にあった。奥に写る立体交差(道路)は、現在の目黒通り=写真/宮田道一コレクション
一つ前の写真(1930(昭和5)年ごろの都立大学駅)とほぼ同じ位置で撮影した現況写真。当時の面影は見る影もない=2025年11月21日、目黒区中根
高架化後まもない頃の都立大学駅の渋谷駅寄りの風景。この車両は、この年の12月に予定していた伊豆急行(静岡県)の開業PRをかねて東横線で試運転を行っていた伊豆急100系電車=1961年10月11日、撮影/伊藤忠興
ひとつ前の写真(高架化後まもない頃の都立大学駅の渋谷駅寄りの風景)とほぼ同じ位置から撮影した現況写真=2025年11月21日、目黒区中根
1953(昭和28)年ごろの祐天寺駅。木造の2階建て駅舎は、モダンなハーフティンバー様式で建てられていた=写真/宮田道一コレクション
現在の祐天寺駅が入る駅ビル。2018(平成30年)年に建て替えられた=2025年11月21日、目黒区祐天寺
祐天寺駅といえば、鉄道ファンにはお馴染みの「カレーステーション・ナイアガラ」=2025年11月21日、目黒区祐天寺
高架化工事がはじまる前年の1965(昭和40)年に撮影された東横線と駒沢通りが平面クロスしていた踏切。祐天寺駅と学芸大学駅のほぼ中間地点にあった。左手に写る交番は、現在も同じ位置に建っている。線路は、奥が祐天寺駅方向=写真/宮田道一コレクション
東横線と駒沢通りが立体交差する場所には、電車が地ベタを走っていた平面クロスの時代からある交番が、建物もそのままに今も変わらず建っている=2025年11月21日、目黒区中央町
1962(昭和37)年に撮影された学芸大学駅。開業した1927(昭和2)ごろは、麦畑と竹林が覆い茂るなかに駅はあったという。プラットホームは、昔も今も上り線と下り線の間に設けられている。電車は、アオガエルの愛称で親しまれた旧5000系=写真/宮田道一コレクション
現在の学芸大学駅西口。上り線側から都立大学駅方向を見る=2025年11月21日、目黒区鷹番
学芸大学駅の改札を出て東口に出ると閉じられたシャッターが目につく。この中に旧地下駅へと降りる階段が遺されている=2025年11月21日、目黒区鷹番
トップ画像と同じ位置から撮影した現在の光景。線路の延長線上にある高層ビル群は渋谷駅周辺=2025年11月21日、目黒区鷹番
高架下にある小さな遊歩道のところには、地上線時代の名残りとして東横線の橋台が遺されていたが、いつのまにか取り壊されてしまった=2025年11月21日、目黒区碑文谷
高架化工事がはじまる1年前の1965(昭和40)年に撮影された学芸大学駅~都立大学駅間にあった東急の電車を修繕する「碑文谷工場」周辺のようす。高架化工事と同時に工場は廃止され、現在は東急系のゴルフ練習場が建っている=写真/宮田道一コレクション
1966(昭和41)年まで存在した東横線の電車を修繕する工場「碑文谷工場」の跡地。右側には東急系のゴルフ練習場「スイング碑文谷」がある=2025年11月21日、目黒区碑文谷
1958(昭和33)年頃に撮影された都立大学駅。駅は南北に走る線路の谷間にあり、現在の目黒通り(都道放射3号線)との立体交差を目的に線路高上(高架化)が行われた。写真右手に写る「緑屋〔ミドリヤ〕(のちの西武クレジット→現・クレディセゾン)都立大学駅前店」は、1968(昭和43)年まで営業していた=写真/宮田道一コレクション
ひとつ前の写真(1958〔昭和33〕年頃に撮影された都立大学駅)とほぼ同じ位置から撮影した現況写真=2025年11月21日、目黒区中根
高架化後まもない頃の都立大学駅のようす。手前側が渋谷駅方向。車両は、伊豆急行(静岡県)の開業を前に東横線でデモンストレーションを行っていた伊豆急100系電車。左の電車は“アオガエル”こと旧5000系電車=1961年10月11日、撮影/伊藤忠興
高架化された都立大学駅(後方にホームの屋根が見える)から自由が丘駅へと向かう試運転中の伊豆急の電車=1961年10月11日、撮影/伊藤忠興
ひとつ前の写真(1961年10月11日)とほぼ同じ位置から撮影した現況写真=2025年11月21日、目黒区中根
都立大学駅の初代駅名「柿ノ木坂」の名は、東横線の変電所名にも見ることができる=2025年11月21日、目黒区柿の木坂