しばらくぶりに乗った鉄道路線で、いつのまにか地下化や高架化工事などで車窓風景が一変していたことも知らずに、居眠りをしてハッと目が覚めると「ここはどこだ?」となったことがある人もいるのではないだろうか。都市計画や鉄道路線網の整備によって、地下化や高架化される鉄道路線は全国に点在する。東京・渋谷と神奈川・横浜を結ぶ東急東横線も、この60年の間に地下化や高架化によって車窓が一変している。これまでも地上を走っていた東横線のはなしは、2025(令和7年)年5月3日の記事で横浜駅周辺を紹介しているが、今回は地ベタを走っていた頃の東横線にタイムスリップしてみたいと思う。
※トップ画像は、42年前に撮影した東横線の学芸大学駅から渋谷駅方向を望む風景=1983年10月1日、目黒区鷹番
高架化で踏切解消
東急東横線は元々、丘と谷をかわして建設されたことから、高架上にプラットホームを備えた駅が、開業まもない頃からあった。渋谷駅(東京都渋谷区)、中目黒駅(東京都目黒区)、自由が丘駅(東京都目黒区)、東白楽駅(横浜市神奈川区)、横浜駅(横浜市西区)、(高島町駅〔横浜市西区〕、桜木町駅〔横浜市中区〕/2013〔平成25〕年に廃止)が、それであった。現在では、地下区間と高架区間が大半を占め、地ベタを走る区間はわずかしかない。
踏切の数も、一番多かった時は渋谷駅と桜木町駅の間に67か所あったが、1975(昭和50)年代には37か所まで減少した。これは、「踏切解消策」によるものだった。今も残る踏切は、都立大学駅~自由が丘駅間(東京都目黒区)に5か所、自由が丘駅~田園調布駅間(東京都世田谷区)に3か所、菊名駅~妙蓮寺駅間(横浜市港北区)に4か所、妙蓮寺駅~白楽駅間(横浜市港北区・神奈川区)に6か所、白楽駅~東白楽駅間(横浜市神奈川区)に2か所の計20か所しかない。
日本における鉄道の高架化は、昭和初期から進められていたが、先の大戦による資材統制で工事や計画は中断し、戦後も戦災復旧に追われるなど、高架化工事が行われることはまれであった。1955(昭和30)年代になると、自動車の普及と鉄道輸送の増加により線路と道路が平面交差する「踏切」が交通渋滞の原因となり、都市問題にまで発展した。1961(昭和36)年の踏切道改良促進法の公布とともに、1963(昭和38)年には綱島駅(横浜市港北区)が周辺道路との立体交差工事により高架駅となり、その後も祐天寺駅(東京都目黒区)、学芸大学駅(東京都目黒区)、都立大学駅(東京都目黒区)と次いで高架駅となった。
1985(昭和60)年代には新丸子駅(川崎市中原区)が高架化され、平成の時代では日吉駅(横浜市港北区)、田園調布駅(東京都大田区)、渋谷駅が地下化され、さらに反町〔たんまち〕駅(横浜市神奈川区)、横浜駅の地下化とともに横浜駅~桜木町駅間が廃止された。現在、地上にプラットホームのある駅は、代官山駅(東京都渋谷区)、大倉山(横浜市港北区)、菊名駅、妙蓮寺駅、白楽駅の5駅だけになってしまった。
中目黒駅~都立大学駅間2.5kmの連続立体交差工事
地ベタを走っていた祐天寺駅、学芸大学駅の2駅が高架化されたのは、1966(昭和41)年~1970(昭和45)年に行われた、東京急行電鉄として23例目となる立体交差工事によるものだった。中目黒駅は、開業時から高架駅であったことは前述のとおりであるが、いっぽうの都立大学駅も東急として3例目となる都立大学駅付近立体交差工事(既存踏切を2か所廃止)として、1961(昭和36)年に高架化されていた。
祐天寺駅と学芸大学の2駅は、1969(昭和44)年に下り線が先に高架化され、1970(昭和45)年に残る上り線も高架化された。この区間には、16カ所の踏切があったが、いずれも廃止された。
1955(昭和30)年代前半のころの学芸大学駅や都立大学駅の周辺は、畑や先の大戦による焼失住宅の空き地が点在していたという。























