砂利運搬用として東京市電気局(東京市電)の電動貨車を玉電に乗り入れさせるための許可申請書=資料/国立公文書館蔵
昭和初期に発行された「玉川電車沿線名所図絵」より。右書きで書かれた「たぬき」の文字に時代を感じさせる=資料提供/宮田道一コレクション
1930(昭和5)年に発行された地形図に記載された砧線の路線図。「たまがは(わ)」、「きぬた」以外の駅は記載されていない。※着色は筆者加筆のもの=資料所蔵/JLNA
1933(昭和8)年に発行された『玉川電車沿線遊覧案内』より。玉川から分岐して砧までを結んでいるのが「砧線」=資料/宮田道一コレクション
廃止直前となる1969(昭和44)年5月に撮影された玉電の二子玉川園駅。廃止後は東急ストアがこの場所に建っていた。今はなき駅前にあった富士観会館の最上階から撮影したもの=写真提供/飯島巌コレクション
かつての二子玉川園駅の西口にあった東急ストア。この場所に玉電の二子玉川園駅があった=1983年ごろ、写真提供/宮田道一コレクション
二子玉川駅のほど近くにあった遊園地「二子玉川園」で開催された怪獣パレードの案内看板=1972年8月27日、世田谷区玉川
現在の二子玉川駅(東口)のようす=2026年1月6日、世田谷区玉川
かつての玉電の駅があった場所も、いまは駅の中に取り込まれている。二子玉川駅で西口方向を見る=2026年1月6日、世田谷区玉川
砧線の延伸計画区間(砧村~狛江村)の軌道起業廃止を運輸省と建設省(当時)に届け出た書類。昭和26年9月25日に届け出を行い、翌(昭和27)年6月4日に廃止が認められた=資料/国立公文書館蔵
1939(昭和14)年2月に東京市電気局が取りまとめた「東京市交通機関網図」。砧線の延伸区間が記されている貴重な資料で、計画上の終点が、小田急線の「和泉多摩川」駅だったことがわかる=資料/国立公文書館蔵
「ジャマ電」と揶揄されたころの玉電(玉川線)の光景。駒沢停留所で=1969年3月、世田谷区駒沢、写真提供/宮田道一コレクション
新玉川線の計画路線図。東京急行電鉄50年史(1972年)より=資料所蔵/JLNA
造花やモールで飾られた惜別電車「さよなら玉電」。廃止直前とはいえ、線路内で撮影が許されるおおらかな時代だった=1969年5月、写真提供/飯島巌コレクション
二子玉川(旧・二子玉川園)駅周辺の玉電「砧線」の廃線跡略図=世田谷区設置の現地案内板に筆者加筆
砧線〔玉川・砧間〕軌道新設線路平面図より、二子玉川駅周辺を抜粋したもの。カーブを描いている辺りに小さいながらも今も砧線の線路敷は残されている=資料/国立公文書館蔵
高架下からはみ出した自転車駐輪場部分とその脇の道路が玉電の線路跡。このあたりで玉川線と砧線は分岐していた=2026年1月6日、世田谷区玉川
まだ新玉川線だった時代の高架橋の左側に沿った敷地が玉電の廃線跡。玉川線と砧線の用地だっただけに、その広い廃線跡には東急の名を冠した企業の事務所や詰所などが建っていた=1992年2月28日、世田谷区玉川
まるで雑木林と化した砧線の廃線跡。この土地は世田谷区に譲渡され、手つかずのまま57年の歳月が経過した。左下に「鉄道用さくがき」が見える=2026年1月6日、世田谷区玉川
雑木林を取り囲むように設置された「鉄道用さくがき」。この中を砧線は走っていた=2026年1月6日、世田谷区玉川
玉川通り(国道246号線の旧道)を越えた廃線跡は、「花みず木通り(砧線跡)」という名の区道として整備されていた。写真中央の細長くつづく道路が砧線の廃線跡で、その上に見える高架橋が国道246号線の新道バイパス=2026年1月6日、世田谷区玉川