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1978年デビューのサザンオールスターズ

歳月は、スネアドラムの音のよう。聴くきし音は、すぐに空気に溶け込んでゆく。

1978年のとある夕方、ぼくは原宿は表参道にあったビクター・レコードの地下の喫茶店にいる。後に大プロデューサーとなるTさんが、ひとりの男を伴ってやって来た。少年っぽさが消えて、大人になる寸前の青年。

彼がサザンオールスターズの桑田佳祐だった。デビュー・アルバム『熱い胸さわぎ』は、1978年8月25日に発売され、それに先立つ6月25日、「勝手にシンドバッド」がパイロット・シングルとして発売されていた。しかし、まだサザンオールスターズはブレイクしていなかった。J-POPという言葉はまだなく、ニュー・ミュージックが全盛の時代だった。

1978年の春、T氏に呼ばれたぼくは、ビクター・レコードに出向き、サザンオールスターズのデモテープを聴いた。1曲だけの視聴だったが、限りない可能性を感じた。グループ名は、ニール・ヤングの名曲「サザン・マン」とサルサのファニア・オールスターズを合体させて生まれた。桑田佳祐の住まいが、湘南は茅ヶ崎市南湖(なんご)にあったのも、イメージにプラスしている

シングルは出た。売れなかった。アルバムが出る。業界関係者は注目したもののまだ売れていなかった。

そんな時代の桑田佳祐を知る者は少ないと思う。ぼくはブレイク直前の彼と逢えたのだ。

左から『熱い胸さわぎ』(1978年)『タイニイ・バブルス』(1980年)『NUDE MAN』(1982年)『人気者で行こう』(1984年)『10ナンバーズ・からっと』(1979年)『Young Love』(1996年)『綺麗』(1983年)

メンバー全員が公平に

桑田クンは、青山学院大学を出て就職しないでプロダクション、レコード会社と契約したわけだけど、契約の条件とか何かあったの?とぼくが尋ねる。

“メンバー全員が大学を出た人間の初任給をもらえるよう、プロダクションと交渉しました。音楽業界にメンバー全員が就職したという感じが欲しかった”

その答えを聞いた時、彼の地に足が着いたしたたかさを感じた。契約金何百万円という代わりに、メンバー全員がそこそこ生活できる金額は、音楽シーンで生き残るためのしたたかさに通じると思ったのだ

そのころのサザンオールスターズは桑田佳祐がリーダーではなかった。彼はフロントマン的交渉役だったのだ。メンバー全員のことを考えたプロダクションへの提案だったのだ

バンドが不仲になる原因として、金銭的トラブルがある。作詞、作曲をする者には売れれば多額の印税が入る。それができないメンバーは、少ない給料でやらねばならない。同じバンドで演奏しているのに貧富の格差ができ、それがトラブルの種となる。

会社に就職したのなら、ちゃんと働いていれば給料が上がってゆく。メンバー全員が公平に。それが桑田佳祐の先を見たしたたかさであり、優しさだったのだ

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収入に満足していた“毛ガニ”...
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岩田由記夫
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