国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。今回から登場するのは、フォークシンガーの西岡たかしです。1944年生まれで現在は78歳。67年に、フォークグループ「五つの赤い風船」を結成し、リーダーとして活動。グループは72年に解散(2000年には「五つの赤い風船」を再結成)しましたが、その後はソロを中心にプロデュースなど幅広く活躍しています。
“仮歌”だったマイク真木の「バラが咲いた」
ぼくを音楽に関することでご飯を食べさせてくれるきっかけとなったのは、今、思い起こすと1956年、6歳の年にFEN(米軍極東放送網)から流れてきたエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」だった。この曲と春日八郎の歌謡曲「お富さん」によって、ぼくは音楽のコアなファンになった。
13の時のP.P.M(ピーター・ポール・アンド・マリー)、14歳の1964年のザ・ビートルズによって、自分の世界が変わり、より音楽にのめり込んだ。自分のルーツは歌謡曲、フォーク・ソング、ポップス(ザ・ビートルズ登場時はロックという言い方はなかった)と今では思う。
フォークには特に夢中になった中学、高校時代があってアコースティック・ギターでP.P.Mやブラザース・フォア、キングストン・トリオなどを稚拙ながらコピーを試みたりした。後にぼくが好んで聴いていたのはモダーン・フォークというジャンルだったと知った。
モダーン・フォークは大ブームとなり、浜口庫之助が書いてマイク真木が歌った「バラが咲いた」は大ヒットした。実はこの曲はレコード会社から頼まれて、“フォークっぽい曲”をということで浜口庫之助が書き下ろした。最初は歌謡曲畑の歌手が歌うことになっていた。バックの演奏が済んで、仮に歌を入れる~仮歌~の段階で、無名だったがモダーン・フォークに魅せられ、歌っていたマイク真木に依頼することになった。
フォークっぽい味、フォークっぽい歌い方をスタッフが仮歌で知りたかったからだ。ところがマイク真木の仮歌の出来があまりに良かったので、このままレコードにしようということになった。結果、「バラが咲いた」は大ヒットした。このエピソードは、生前、浜口庫之助にインタビューした時に教えてくれた。ちなみに「白いブランコ」や「さよならをするために」などを大ヒットさせた兄弟デュオ、ビリー・バンバンは浜口庫之助の弟子からそのキャリアをスタートさせている。
関西で盛んだったフォーク・リバイバル運動の研究
東京を中心にモダーン・フォークが流行していた頃、大阪を中心とした関西ではピート・シーガーなど1950年代のフォーク・リバイバル運動の研究する動きが盛んになった。モダーン・フォークのように商業主義的な音楽ではなく、民衆や生活の歌、メッセージ・ソングとしての、言わば本来の形のフォーク・ソングの研究だ。
大衆の歌ではなく民衆の歌を研究する会の中心にいたのが、後に「五つの赤い風船」を結成する西岡たかしだ。西岡たかしの自宅に集まった若者は、フォーク・リバイバル運動によって無名の存在から脚光を浴びたレッドベリー、リバイバル運動の中心だったピート・シーガー、高石友也がヒットさせた「受験生ブルース」の共作者である高校生だった中川五郎もフォーク研究会のメンバーのひとりだった。研究会のメンバーたちはやがてギター片手にオリジナル・ソングを歌うようになった。メッセージ・ソングという言葉を日本で初めて使ったのは西岡たかしだった。