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国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。フォーク歌手の高田渡(1949~2005年)は、1969~71年にかけて京都で過ごし、関西フォークの中心的な存在として活躍。その後は東京に戻り、吉祥寺界隈を拠点に独特の世界観を持つフォークソングを世に送り続けました。第3回も、高田渡の人柄がよく伝わってくるエピソードばかり。話題のCM、そして高田渡が最も機嫌が良かった日とは

携帯電話に「野外無線みたいなものを使うなよ」

高田渡は生涯、つつましい生活を送った。ぜいたくとは無縁でテクノロジーがもたらす生活の変化も好まなかった。それは昭和30年代的な生き方だった。移動手段は電車に年代ものの自転車。ファッションはトレードマークだったアメリカの労働者階級が身に着けているチェックのシャツやTシャツにジーンズでステージにも普段着で上がった。

洒落たレストランなどは好まず、昔ながらの居酒屋。自宅に引いている電気の容量は30アンペアでエアコンを使わなければこれで充分といつも語っていた。唯一の文明の利器はFAXくらいだったろうか

ある時、高田渡と話しているとぼくの携帯電話が振動した。断って電話に出たら後で言われた。“そんな、軍隊じゃあるまいし、野外無線みたいなものを使うなよ”と一刀両断だった。そんなことを言ったって、いずれお子さんが大きくなったら、携帯電話が欲しいと言い出しますよと返した。“俺の家では絶対にそんなもんは許さない。まぁ、自分で食えるようになったら、後は勝手にやればいいけどな”と言った。

高田渡の死後10数年過ぎて、息子である高田漣にこの話をした。そうしたら、“外ではそんなこと言ってても優しいオヤジで、自分は早くから携帯持ってましたよ。まぁ、自分で買ったんだけど”と外で厳しく内で優しい高田渡の実の顔を教えてくれた。

女性ファンから「わぁ、カワイイ」 サイン会と握手会が初めて実現

ミュージシャンが作品をリリースすれば、少しでも多くの人に聴いてもらいたい、その結果、収入が増えれば良いと思うのは普通だ。そのために所属事務所やレコード会社の展開するプロモーションに協力的になる。しかし、高田渡はそういったプロモーションをほとんどしなかった。本人に訊いたら“面倒くさいし、聴きたい奴が聴けばいい”と言っていた。

ところが21世紀に入って、突然、高田渡は行動的になった。この朴訥という言葉がぴったりの酔いどれ吟遊詩人への静かな人気の盛り上がりが起こった。バブル経済が破綻し、バブルなどお構いなしに飄飄と生き続けた高田渡のような存在が、本当は正解な生き方なのではと社会が再評価したのだと思う。

2001年、久々に『日本に来た外国詩…。』という新作を発表した。このアルバムの発表会が銀座の山野楽器のビルにある小ホールで行われることになった。彼のマネージャーに頼まれて、ぼくは何故かトークライヴの相手をさせられることになった。高田渡はとにかく話さない人なので、ぼくなら打ち解けて話すはずだと言う。ビールももちろん、少し飲ませておくと言われた。彼を乗せるために高田渡がよく言う“若いお姐ちゃん”である、彼を尊敬するシンガー・ソングライターの卵をふたり、楽屋に招いておいた。

美女とビール。彼は上機嫌でステージに上がることができた。しかも来場者の半分以上が女性客だった。着席する時、前列に座っていた女性の“わぁ、カワイイ”という声が聞こえた。“ねぇ、渡さん、あの女性、カワイイって言ってますよ”と着席しながら、ぼくは高田渡に言った。“バカヤロー、こんなジジィのどこがカワイイもんか”と小さく返して来たが、その顔はどこか嬉しそうだった。

トークライヴもその後の演奏もうまく行った。こういうイベントの後、普通はサイン会が行われることが多い。しかし、高田渡は事前にそれを固辞していた。ところが、トークライヴが終わるとサイン会をやってもいいと言い出した。それまでのキャリア30年以上の音楽生活の中で、サイン会とか握手会は一度もやったことが無かったのが、初めて実現したのだった。楽屋に戻って来た彼は汗だくだったが上機嫌だった。あんなに機嫌の良い高田渡を見たのは、あれが最初で最後だった。

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CM出演で高田渡を知りたい人が増えた...
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