『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。
92歳まで流罪の身
高田城は徳川家康の六男、松平忠輝が城主だったことで知られます。しかし、この忠輝という人は92歳まで生きますが、父である家康に嫌われたことで不遇をかこち、2代将軍で兄である秀忠からも疎まれます。
さらに大坂夏の陣では連絡ミスから秀忠の家臣を手討ちにし、合戦にも遅参したことで、秀忠から流罪に処せられてしまいます。当時25歳でしたが、92歳まで流罪の身だったことになり、気の毒な一生といわざるを得ません。そもそも何が家康から嫌われる原因になったのでしょうか?
忠輝の母は側室の茶阿局
忠輝の母は側室の茶阿局(ちゃあのつぼね)ですが、彼女の身分が低かったことと、その子忠輝の顔が醜かったという説(お母さんは絶世の美女だったといわれていますから、これは家康の責任です。)や、忠輝は双子として生まれたためだという説もあります。当時は双子の存在が説明できず、忌避される対象でした。無知とは恐ろしいものです。
家康は、いずれにせよ、忠輝を遠ざけていました。彼が領国を与えられたのは、弟の七男松千代が急逝したあとのこと。初めての領国は武蔵国深谷1万石でした。
その後、伊達政宗の長女、五郎八姫(いろはひめ)をめとったことで後ろ盾ができ、慶長15(1610)年高田藩主となりました。それまでに領有した信濃国川中島とあわせると、75万石もの大大名となりました。さらに慶長19(1614)年には舅である政宗の縄張りで高田城が作られ、忠輝の人生もようやく順風かと思われました。