無人島にひとつ持って行くならとか、最後の晩餐はなににするか、みたいな感覚で、いちばん好きな家電はなにか、をたまに考える。別にだれかから尋ねられたわけでもなく、問わず語りならぬ問わず回答である。でいつもだいたい、やっぱり炊飯器かな、と思う。私は、炊飯器が好きだ。
■もしかしたら炊飯器に自分を投影しているのかもしれない
まずもって炊飯器は、炊飯しかできない点がいい。さいきんは保温機能を使った低温調理器としての活用や、長時間の煮込みを担うガスの代役として注目されることもあるが、炊飯器は「原則、米しか炊きませんよ」という無骨なスタンスを貫いている。あれもこれもできますとなりがちな、日々われわれが勤しむ機器と人類の発展において、1950年代に電気炊飯器が誕生して以来、一貫して米をいかに炊くかのみを追究してきたマシンは、逆に稀有な存在ではないか。
つぎに炊飯器には、ピンからキリまであるところがいい。味や釜にこだわった高級炊飯器というジャンルが定着し、いまや同じ大きさ、同じ機能を有するのに、炊飯器は数千円から十万円超えまでと、おどろくほど値段の幅がある。10倍以上の開きだ。現代のわれわれは炊飯器を買おうとする時、いったい自分は何に価値を見出し、人生で何に重きを置くのか、いやがおうにも向きあわざるをえない。あなたが食事という行為をどこまで大事にするのか、主食の味覚を他と比べてどれほど重視するのか、自炊を生活のいかなる営みに位置付けるのか。自分自身で答えを出さないと、あなたは財布からお金を取り出すことさえできないのだ。炊飯器を買うとは、内省からはじまる哲学的行為なのである。
みっつめ。そうはいっても炊飯器は、なくてもいい点がいい。ちょっとしたコツさえつかめば、土鍋や鉄鍋を使ってコンロで米は炊ける。私もたまにそうして、その仕上がりに満足したりする。あるいはパックごはんや外食に全振りするから、家に炊飯器がない人もいるだろう。割り切れば炊飯器は、たちまち不要になる。冷蔵庫やスマホと違って、最悪なくてもなんとかなるという消極的な姿勢のまま、生活必需品のポジションにあり続ける炊飯器が、私は好きだ。もしかしたら、お前なんかなくてもなんとかなるという炊飯器の儚さと切なさに、私は会社での自身の存在を投影しているのかもしれない。
私が炊飯器を好きなのは、炊飯器に好きな点がいろいろあるからだけではない。炊飯器はみんなから好かれている、という側面もある。みんなが好きだから好きなのだ。もちろん家電の好かれ指数などというエビデンスはない。あるのかもしれないが、私は知らない。私が知っているのは、とくにSNSでは炊飯器の話題が好まれるという、私の実感である。
私は日々、家電の広告を行っている。おもにSNSを広告の場として、なにをどういう風に広告するか、あれこれ考えるのが仕事である。広告をする側が金を払って自分たちがしたい広告を一方的に広告する、テレビコマーシャルやコンテンツに挟まれる動画広告とちがって、みんなが受信も発信も行いながらそれぞれがそれぞれの好きを追っかけるSNSでは、企業が広告したい製品を一方的に広告することが許されない。正確に言うと許されないわけではなく、そうすることは可能だが、そんなことしたって無視されて嫌われるだけなのだ。
なのでおのずから、SNSではみんなに好かれる、あるいはみんなに嫌われないモノの広告が優先されることになる。こっちの事情や採算は、まずはいったん度外視しなければならないのだ。好感度によってタレントがコマーシャルに起用されるように、家電も好感度が、その広告を成立させられるかどうかの明暗を分けるのである。SNSでは売りたいモノを売るのではなく、好かれるモノを売れ。もちろんこれは暴論ではある。