それまでとは一見かけ離れたサウンド 「自分の中ではまったく違和感がないんだよね」
細野晴臣の名を一般的にしたのは、何と言ってもYMOの成功だった。ただ、YMOはいきなり日本で大ヒットしたわけではなかった。最初はイギリスで人気となり、それに触発された日本のレコード会社の猛プッシュによりヒットとなっていった。YMOのサウンドは、それまでの細野晴臣の音楽とは一見、かけ離れているように当時は思ったファンも多かった。
YMOの人気に火がつく直前、細野晴臣はこう語っていた。
“自分をずっと聴いて来てくれた人には、YMOのサウンドは突飛かも知れない。でも、自分は常にやりたい音楽だけをやって来た。YMOは今やりたい音楽で、自分の中ではまったく違和感がないんだよね”
その発言を聞いてすぐにYMOは大人気となった。細野晴臣という人は、常に時代の先を行き、そこへ多様な自身の芸術的完成を投入し、独自な世界を創造して来た。YMOは時代の感性が、細野晴臣に一時的に追いついたのだとぼくは考えたものだ。
しかし、YMOは1983年に散開した。解散ではなく、散開というのが、YMOらしく、細野晴臣らしいと当時は思ったものだ。さらに細野晴臣らしいのは、YMO以降の音楽の旅路だ。YMOで味わった大ヒットの旨味を追うことなく、細野晴臣は我が道を歩む。
“音楽というのは自分のアイデンティティであり、生きがいなんだ。これだけ長い間、音楽をやっていると、どうすればヒットするかは、ある程度は分かって来る。だからと言って自分の生きがいに反してヒットに寄ろうと思ったことはない。YMOはたまたま、自分がやりたいことを多くの人が受け入れてくれただけで、受け入れてもらえるような音楽を生きがいに逆らって作ることはないだろうな”
YMO散開後に考えていたプロジェクト構想
YMOの散開からしばらくして、細野晴臣に”ねぇ、細野さん、またYMOみたいなプロジェクトの構想ないんですか?”と訊ねた。
“ふふ~ん、それがあるんだよね、岩田くん。でも教えないけど…”
“そんなこと言わないでヒントだけでも教えて下さいよ”とぼく。
“少しだけ教えると、オーケストラなんだよ。フル・オーケストラと自分が共演して、まったく新しいサウンドを創造するんだ。ただこの計画には、難点がひとつあるんだよな。ぼくが弾いて欲しいバイオリンの人とか、皆、高齢に差しかかっている。へたすると、この夢が実現する頃には、そういった方々がもう存命していない可能性があるんだ。お金もかかりそうだしね…”
このプロジェクト構想は実現しなかった。だが、細野晴臣という人の発想の泉は次々とアイデアを湧かせる。ひとつのアイデアに固執するのでなく、同時多発的にアイデアを進行させ、やれるものからやってゆく。そういうスタイルなのだ。未完のアイデアをすべて、いつか語って欲しいと思い続けている。
岩田由記夫
1950年、東京生まれ。音楽評論家、オーディオライター、プロデューサー。70年代半ばから講談社の雑誌などで活躍。長く、オーディオ・音楽誌を中心に執筆活動を続け、取材した国内外のアーティストは2000人以上。マドンナ、スティング、キース・リチャーズ、リンゴ・スター、ロバート・プラント、大滝詠一、忌野清志郎、桑田佳祐、山下達郎、竹内まりや、細野晴臣……と、音楽史に名を刻む多くのレジェンドたちと会ってきた。FMラジオの構成や選曲も手掛け、パーソナリティーも担当。プロデューサーとして携わったレコードやCDも数多い。著書に『ぼくが出会った素晴らしきミュージシャンたち』など。 電子書籍『ROCK絶対名曲秘話』を刊行中。東京・大岡山のライブハウス「Goodstock Tokyo(グッドストックトーキョー)」で、貴重なアナログ・レコードをLINN(リン)の約350万円のプレーヤーなどハイエンドのオーディオシステムで聴く『レコードの達人』を偶数月に開催中。
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