ニューヨークまで32時間だよ
春が終わり夏にさしかかった頃、私はメキシコのおんぼろバスにガタゴト揺られてアメリカの国境を目指していた。アスファルトの道とはいえ、両側は見渡す限りの土砂漠である。真っ暗ではあったが、車がすれ違うと砂埃がもうもうと立つのがわかる。そして車のライトで大きなサボテンが浮かび上がるたび、メキシコの安くてうまいテキーラを思い出しては切なくなる。なにしろこれから物価の高い北米の旅が始まるからだ。
夜もとっぷりくれたころ、暗闇のなかにポツンと明かりが見えてきた。あれが国境のようだ。ザックを背負って歩いて国境を通過した私は、アメリカ側の長距離バスのチケット売り場に並んだ。夜にもかかわらず、アメリカ各地に向かう長距離バスが何台も客を待っていた。
「はい、次の人! ミス、どこまで行くの?」
「ええと、ニューヨークまで。何時間かかるの?」
「ここからだと……32時間」
「えっ!? やっぱりアメリカはでっかいねえ」
「ニューヨークまでの通しチケットを売るけど、何度でも途中で降りていいんだよ。観光しながら行けば? ちょうど、10分後にヒューストン行きがでるよ」
「そうだねえ、ヒューストンも寄って行こうかな」
残り1席を確保してもらうと、私はチケットを握りしめてヒューストン行きのバスに乗り込んだ。
動かないピンクのキャサリン
バスはすでに満席だった。小太りの運転手さんが私のチケットを見て「後ろの列だね」と、連れて行ってくれたが、そこには、20歳くらいのアフリカ系の痩せたお姉さんと彼女の連れがドーンと座っていた。
「ヘイ! ここは彼女の席だぜ。君の友だちを下のトランクに入れてもいいか?」
「えっ! キャサリンをトランクに!? ノー!」
「じゃあ、キャサリンはチケット持っているのか?」
そのキャサリンとは、口をパカッと開けた巨大なピンクのクマのぬいぐるみであった。体長が1メートル20センチほどだが胴回りはそれ以上あり、狭い座席から横腹が通路にはみ出している。でかすぎて膝に乗せようにも入らないのだろう。
お姉さんと運転手がでかい声で言い合いをはじめたが、まわりのお客は他人事で我関せずである。おお、これがアメリカか。今まで旅してきた中南米だったら、他のお客も口を挟んでワイワイ大騒ぎになるだろう。
ついにブチ切れた運転手が「ルールだから!」と、キャサリンを掴んでトランクに強制連行しようとしたが、お姉さんは離さず、「キャサリンはマイフレンド~!! 私にはキャサリンだけなの~! うわああああ」と泣き崩れた。
えええ、そんなに嫌なの? と口をポカンと開けた私に、運転手のおじさんが観念した顔をして振り向いた。
「ミス、悪いんだけど、もう出発しないとならんし、あんた細いからここ座れるよね?」
「えっ!? 3人(2人と1匹)でってこと? うーん、まあ、ぬいぐるみなら凹むからいいか」
その言葉を聞いたお姉さんは、パッと泣き止み、「お姉さん、ありがとう! キャッシーもこんなに喜んでいるわ」とたれ目のクマの顔を私に向けた。
しかし、トランク行きを免れたクマのキャサリンは見た目よりも体が堅かった。
これではお尻も入らないではないか。私は体を横にして隙間に滑り込み、足を通路に出して座ることにした。バスが揺れるたびにキャサリンのでかい耳がピョコピョコ動いて私の顔を叩くのだが、どっと疲れが出て、いつしかキャサリンに寄りかかってぐっすり寝てしまった。
放り出されたちょび髭おじさん
それから何時間が経ったのだろう。真夜中、ドスドスという足音で目が覚めた。
「あれ? 路肩にバスが停まっている?」と気が付くと、運転手さんが最後尾にあるバスのトイレのドアをドンドン叩いている。そういえば、斜め前に座っていたちょび髭のおじさんがいない。バスが動き出してすぐ携帯電話で大きな声でしゃべっていた小柄な白人のおじさんだ。
トイレのドアが開いたとたん、車内にモワ〜ッとタバコの匂いが漂ってきた。どうやら、車内で禁止されているタバコを吸っていたらしい。
おじさんは小さな背中を丸めて「ソーリー!」としきりに謝っていたが、ぷりぷり怒った運転手に「ルール違反だぞ!」とばかりに外につまみ出された。トランクを放り投げられ、そのまま真夜中の土砂漠に置き去り……って、まじで!?
たれ目のでかいクマは未だ座席に堂々と座っているくせに、小さなちょび髭おじさんは大放出である。せめてレストランで降ろしてあげればいいのに。もし、野性の動物が襲ってきたらおじさんは戦えないだろう……などど、焦っているのは私だけで、ほかの乗客たちはやれやれという表情でまた寝始めた。真夜中に、しかも何もないところで他のバスは停まらない。あの後、おじさんはどうなったのだろう。
ともあれ一席、空いたので、お姉さんに、「狭いからキャサリン、そっちに置いていい?」と聞いてみたが、「いや! ユーがそっち行けば?」と主張する。ちょびヒゲおじさんが座っていた席の隣を覗くと、マタギのような顔をしたごついおじさんがごろんと横になっていたので、移動は一瞬で諦めた。
車内に朝日が差し込み始めたころ、バスは街の中を走っていた。窓の外にはドラマで見るような青い芝生に白くてきれいな家が建ち並んでいる。中南米の古い都市とは違った風景に感動しながら眺めていたら、間もなくヒューストンのバスターミナルに到着した。
初めて見たヒューストンはビルがニョキニョキと建ち並び西新宿のような巨大な街だった。しかし、西新宿と違って歩いている人はほとんどいない。暑いのにゴーストタウンのようで何だか冷え冷えとしている。車社会のためランチタイム以外は、歩く人はほとんどいないのだろう。
寝袋はいけません
長時間の移動で、すぐにでも横になりたかったが、ヒューストンのユースホステルに電話すると、夕方にならないとチェックインができないという。それならインターネットをして時間をつぶそうと、バックパックをしょったまま図書館へと向かった。すると、入り口に立っていた30代くらいの警備員のお兄さんが憮然とした顔でノーノーと首を振る。
「荷物の大きい人は入れないよ」
「外に出しておけばいい?」
「ダメ」
「じゃあ、小分けにすれば問題ないでしょ?」
「それならOK」
ばらしたところで量も中身も一緒なのだが、しぶしぶ荷物を分解しはじめると、そばで見ていたお兄さんがムスッとしたまま、「これ、寝袋?」と聞いてきた。
「そうだよ」
「寝袋を持った人は入場できないよ」
「えっ、図書館で寝たりしないよ」
「この貼り紙を見て!」
まさか~と思いつつ、貼り紙を見ると確かに「寝袋を持った人は入場不可」とでっかく書いてある。その昔、「私には寝袋で寝る権利がある!」と、駄々をこねて図書館の床でグースカ寝た人でもいたんだろうか。ああ、無情。「ううむ」と私はうなったが、お兄さんに罪はない。
「アイ、シー(理解した)」と、しょんぼり出て行こうとすると、なぜかお兄さんが無表情で追いかけてきてそっと手招きする。怪しい。お金でも巻き上げるつもりなのだろうか。しかし受付のお姉さんが笑って私に「ノープロブレム。ついて行きなさい」とジェスチャーした。
お兄さんの後をヒタヒタとついて建物を出て脇にまわると、そこは職員の駐車場であった。すると、えっさえっさとどこからか板を運んできたお兄さんは私のバックパックを壁に隠すと、鼻をこすって「へへっ、これでOKさ!」とばかりにウインクして持ち場に走って戻っていったのだ。えっ、なに? このツンデレな展開は!? いきなり胸キュンな爽やか青年に早変わりである。
「自由な国」とは言うけれど、多民族国家ゆえにさまざまなルールがあるのは仕方がない。それでも私は他人に無関心でルールに厳しいアメリカが好きになれず、入国1日目にしていい加減で陽気な中南米が恋しくなっていた。しかしお兄さんの意外な親切に、実はおもしろい国なのではないかと思い始めた。
それをさらに思い知ったのが、その晩、ユースホステルにいたふたり組のアメリカ女性との不思議な出会いであった。後編につづく。
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