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下品な言葉として故意に排斥された

落語的、と表現したのには理由がある。私の考えでは、落語は必ずしも正確な東京弁ではない。いわば、地方出身者にもわかりやすいように巧みな変換を施した東京弁であろう。完全な方言があれほど大衆にわかりやすいはずはない。

ならばむしろ歌舞伎のセリフの方が正確であろうと思う。たとえば黙阿弥(もくあみ)の世話物などは、ほとんどの観客には場内イヤホーンを通してしか意味がわかるまい。あれは古典なのではなく、方言なのである。だから、祖父母や亡父がそっくり同じ言葉を使っていた私には、テレビの時代劇を見るのと同じようにすんなりと聴きとることができる。

「おめいっちゃあよう、よしんばきのうきょう箱根の山を越えたもんにせえ、こたあ道理だ、了簡なせえ」

などというセリフは、耳で聞けば全く意味不明だから、落語にもテレビドラマにも有りえない。翻訳すると、

「君たちはたとえ最近上京したにしろ、これは当たり前のことなんだからわかって下さい」

という意味になる。シチュエーションからすると、関西人に物の値段を値切られた店主が、江戸前の厭味をこめて拒否する、というところか。

まさに外国語の感があろうが、現実に明治30年生まれの私の祖父は、こういう言葉を日常しゃべっていた。

ちなみに、今や完全な死語となった「了簡」という言葉は、「考え」とか「理解」とか「許諾」とか「辛抱」とかいう複雑なニュアンスを持っていて、「了簡する」と動詞化すれば、「よく考える」「理解する」「許す」「納得する」「ひきさがる」、などというさまざまな意味になった。

歌舞伎にもしばしば使われ、祖父母もよく口にした言葉である。要するに喧嘩をすれば「了簡なさい」というわけで、こういう言葉が死語となったのは、いかに東京人の性格も丸くなったかということの証明であろう。

―と、このように失われたわれらの言葉を記憶の底から喚起しながら、私は「天切り松 闇がたり」を書いた。

原稿に腐心しながら、しばしば悲しい気分になった。方言は地方文化そのものであり、歴史であり、誇りである。日本中どこへ行っても、美しい方言は正しく継承されている。だのに東京ばかりが、あの粋で洗練された父祖の言葉を、すっかり失ってしまった。

理由は、住民が急激に代謝され、まじりあったせいばかりではない。高度成長の時代に東京弁は下品な言葉であるとされ、故意に排斥されたのである。

小学生のころ、「運動」という妙な教育が行われ、東京弁の特徴である「ね」「さ」「よ」の終助詞を使ってはいけないと言われた。誰が言い出したことかは知らんが、ひどい教育もあったものだと思う。

長じて言葉でメシを食う職業についた。文章はきちんと書こうと心がけているが、日常会話をことさら改めようとは思わない。小説家の癖に下品な物言いをすると言われてもいっこうに構わない。

『天切り松 闇がたり』の中で、私はできうる限り、滅びてしまった故郷の言葉を甦(よみがえ)らせようと試みた400枚のしまいのころには、ほとんど祈る気持ちであった。

私の祖母は若い時分、深川で左褄(ひだりつま)をとった粋な人であった。いわゆる「辰巳の鉄火芸者」である。筆を擱(お)いたとき、祖母の声が耳の奥に聴こえた。

「おまい、こんなんじゃあ誰も了簡しやしないよ。ちゃんと書きない」

江戸っ子読者からの感想を、心よりお待ちする。

(初出/週刊現代1996年2月17日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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