1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第45回。ウクライナで続く戦闘においても、過去のどんな戦争でも、若き得がたい才能の命が奪われていった。そんな一人、作家が初期の名作『活動寫眞の女』にも登場させた「不世出の映像作家」について。
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カツドウが大好きだったサダやん
サダやんは子供のころから、カツドウが大好きだった。
寝ても覚めてもカツドウのことばかりを考え、大きくなったら映画監督になろうと心に決めていた。
父親は下町の扇子職人で、サダやんは六男坊だからたいそうな小遣はもらえない。学校から帰ると新京極まで走って行って、京都座のまわりをうろうろしたり、マキノキネマのスチール写真を覗きこんだりして一日を過ごした。
開幕ベルが鳴るとモギリの足元に膝を抱えて蹲(うずくま)り、洩れ出てくる弁士の声に耳を澄ました。やがて夜も更け、興奮さめやらぬ群衆がどやどやと映画館から出てくる。
サダやんは膝を抱えたまま人々の声を聴き、目をつむって銀幕の匂いを胸いっぱいに吸いこむ。そうしてカツドウの風に触れているだけで、とても幸せな気分になった。
サダやんはそれぐらい、カツドウが大好きだった。
夢は叶った。商業学校を卒業すると、サダやんは等持院のマキノ映画に入社した。所属は台本部だ。市電を乗り継いで撮影所に通う間、サダやんは誰かに話しかけられても気付かぬくらい、先輩の脚本や小説に読み耽(ふけ)っていた。
どうしても監督になりたかった。日本中の観客が溜息をつくような映画を、自分の手で作りたかった。
「昼あんどん」と呼ばれた。顔がゲタのように大きくて、動作がのろくて、いつもボウッとしているように見えたから、そんな仇名がついた。だが、行灯(あんどん)のようにぼんやりしていたわけではない。サダやんの頭の中は、いつだってカツドウのことでいっぱいだったのだ。
一生けんめい、30本もの台本を書いて、サダやんは助監督に抜擢された。マキノのエース、井上金太郎監督の組だ。しかし昼あんどんのサダやんは、助監督の雑用などそっちのけで、いつもキャメラのうしろにつっ立っていた。すきあらばファインダーを覗いて、監督にどやされた。
昭和の初めのそのころ、映画は最大の娯楽産業だった。いきおい映画会社の消長は激しく、サダやんをめぐる環境はあわただしく変化した。
収入も不安定だったし、人間関係も複雑だった。しかしサダやんにとって、そんなことは問題ではなかった。苦労も感じなかった。はた目には昼あんどんに見えたかも知れないが、サダやんの胸はいつも真夏の太陽のように燃えていた。
世界中の観客が拍手喝采するような映画を、自分の手で作りたかった。
そしてついに、チャンスがめぐってきた。昭和6年、サダやんはあこがれのメガホンを握った。満22歳の監督デビューだった。
明けて昭和7年1月に封切られたこの「磯の源太・抱寝の長脇差」は、大好評を博した。サダやんはまるで矯(た)めに矯めていたものを一気に吐き出すように、その年のうちに5本の作品を撮った。
サダやんは一躍、京都映画界の寵児となった。昭和7年末、大枚2000円の支度金を受けて日活に入り、「薩摩飛脚」「盤嶽(ばんがく)の一生」「鼠小僧次郎吉」の3本を撮り、翌年にはさらに千恵蔵プロで、「風流活人剣」など4本の作品を世に送り出した。
名声は不動のものになった。だが25歳のサダやんの胸の中は、新京極の劇場の玄関で膝を抱えていた子供のころと、どこも変わってはいなかった。
お金も名声も、サダやんにとってはどうでもいいことだった。相変わらず寝ても覚めてもカツドウのことばかりを考え、ボサボサの髪にヒゲ面で、いい映画を撮ることだけを考え続けていた。
その証拠に、サダやんは自分の撮った映画を試写の1回きりしか見ようとはしなかった。
「あかん。わし、よう見んわ」と言った。
昭和12年、サダやんは東京に進出した。東宝の前身「P・C・L」に移籍し、新進劇団前進座とタイアップして、新たな挑戦をしたのだった。
小津安二郎も惜しんだ「本邦芸能文化史上の亀鑑」
名作「人情紙風船」の封切られた8月25日、サダやんのもとに召集令状が届けられた。
日本と中国との戦争は7月7日に始まったばかりだった。だが、サダやんは扇子職人の六男坊だったし、体もたいそう丈夫だったので一番先に兵隊にとられたのだった。
京都に戻ったサダやんは、大勢のカツドウ屋たちに送られて出征した。見送りの人々が集った東本願寺の境内で、サダやんは兵隊がみなそうするように、威勢のいいことは何も言わなかった。そんなことは言えるはずがなかった。
ゲタのように大きな顔を歪めてただ一言、「わし、兵隊に行くのいやや。まだ作りたい映画がぎょうさんある」、と言った。
サダやんは翌昭和13年9月17日、中国大陸の開封(かいほう)野戦病院で死んだ。28歳と10ヵ月の生涯だった。
遺された「従軍記」のノートに、サダやんはこう記している。
──「人情紙風船」が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみに非ず。
過日、縁あって故・山中貞雄監督の法要にお招きをいただいた。
ほんの下世話な興味から、山中監督を連載小説に登場させてしまった結果である。真摯(しんし)に監督の遺徳をしたう参会者の皆様の手前、まことに面映(おもは)ゆい限りではあるが、ご無礼は承知の上で末席に加えさせていただいた。
没後六十年の今もなお、「山中忌」は京都大雄寺(だいおうじ)に於て盛大にとり行われる。
席中、「人情紙風船」が京都文化博物館で上映されると聞き、帰京時間を変更して鑑賞することとした。
何度くり返し見ても新たな感動をもたらす名作である。このようなモダニズムが昭和初期の日本映画において表現されている事実は、まことに驚異という他はない。
まさに永遠のモダニズムとでも言おうか、われら表現者が永遠に追求し、永遠に到達しえないモダニズムが、この映画には完璧に表現されている。
20代の若さでこれを成しえた山中貞雄は天才であると思う。そして天才である以上に彼の偉大である点は、あらゆるモダニズム表現のともすると陥る「理屈っぽさ」や「てらい」を、毫(ごう)も感じさせないところであろう。
彼の作品の持つ純粋な芸術性と普遍的な娯楽性の間には、何の矛盾も相克もない。むしろあらゆる表現の究極において、両者は互いの存在を担保し合う。そのことを彼はわずか86分のフィルムの中で明確に証明している。
そう思えば、相も変わらず純文学だの大衆文学だのと根拠のない分け隔てをし、勝手に恐々としている文学の有様が恥ずかしい。
ましてや視聴率と興行収益ばかりを尺度とする、今日のビジュアリズムにおいてをやである。
創造することの矜(ほこ)らしさ、文化というものの人類に対する責任を、われわれは忘れている。
もちろん、そうした文化を保護する立場の人々もそれを忘れている。かつて「扇子職人の六男坊」という理由で、いの一番に殺された山中貞雄の作品は、今やわずかに3本のフィルムを残すのみである。
おそらく出征に際して軍歌も唄わず、万歳もせず、ただ「わし、兵隊に行くのいやや。まだ作りたい映画がぎょうさんある」、と叫んだ若き映画監督の声を、われわれは60年の時空を越えて、しっかりと受け止めねばならない。歴史の継承とはそういうものであろうと思う。
大雄寺の碑文は生前親交の厚かった小津安二郎の書である。文中に曰く、
「……その意匠の逞(たくま)しさ、格段の美しさ、洵(まこと)に本邦芸能文化史上の亀鑑として朽ちざるべし……」
亀鑑などという言葉は今や死語であろう。ちなみにこれは、「かけがえのない手本」というほどの意である。
「兵隊に行くのいやや。まだ作りたい映画がぎょうさんある」と叫び、名作「人情紙風船」にすら決して満足しえなかった山中貞雄監督の精神は、まさしくわれら後進の亀鑑である。平和の亀鑑である。文化の亀鑑である。
(初出/週刊現代1996年10月12日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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