四十肩について
「ちょっとした動作」で激痛が
四十肩というやつになってしまった。
私は四十四歳であるから、「四十肩」と言うべきか「五十肩」と言うべきか微妙なところであるが、おまけで四十肩ということにしておこう。
思うに、本誌読者の相当数は私と同様の痛みに、今も顔をしかめているのではなかろうか。対抗誌「週刊P」の読者は未だこの苦痛を知らず、かと言って新聞社系の週刊誌の読者は、すでに完治しているであろう。したがってこの稿は本誌にこそふさわしい。
さて、職業がら変な取材癖のある私は、発症するとたちまち親戚知人同級生編集者通りすがり等、当たるを幸い四十肩についてのインタヴューをとった。
そのデータによると、最も早い発症は35歳、遅い人は55歳、遅かれ早かれほぼ全員が全く同じ症状に悩まされていることを知った。
これから発症する方のために、どういう経緯で病状が進むかをお伝えしておこう。
まず初期症状として、左右いずれかの肩に偏よったコリが自覚される。多くの場合は、利き腕の方である。
数ヵ月後、肩のコリなど忘れちまうような強いコリが、背中の肩甲骨下端部、俗に言う「ケンビキ」に現れる。これは肩のコリとは全く異質な、一点に集中するような痛みである。ほとんど指先ぐらいの部位が、まるでそこに病巣でもあるかのように、正確に痛む。そしてこの痛点はしばしば移動する。
そのうち痛みはどんどんひどくなり、時として息もできぬほどになるので、ことに血糖値の高いオヤジはつい心臓疾患を疑う。ちなみにこの痛みには、お灸(きゅう)がたいそう効く。
さらに数ヵ月後、背中の痛みは再び肩関節に戻る。これは第一段階の肩コリなどとは較べようもない。ジッとしている分にはまあ辛抱できるのだが、ちょっとした動作のたびに思わず蹲(うずくま)ってしまうような激痛が走る。ちょうど股間を蹴られたような、体を丸めたまましばらく身じろぎもできぬほどの痛みである。例えて言うなら、「肩関節が脱臼しかかっている状態」、であろうか。かくて四十肩は「完成」する。
ところで、聞いた限りでは、激痛を伴う「ちょっとした動作」には多少の個人差があるらしい。大別すると、①手を上方に上げる②手を後ろに回す③掌(てのひら)もしくは肘(ひじ)をつく──の三種類である。
見出し パンツをはくたび、大便をするたび
私の場合、①は案外平気なのだが、②はテキメンに悲鳴を上げる。ところが、この手を後ろに回す動作というのは、実は日常生活に多いのである。
ホットカーペット上に胡坐(あぐら)をかいて仕事をする私は、原稿を書きながらしばしばケツをカく。こんな動作は長年の習慣であるから、誰もいちいち考えながらケツをカいたりはしない。すなわち、甘い恋物語なんぞを書きながら、思わずケツをボリッとカいたとたん、ああっと悲鳴を上げて倒れることになる。これを、一晩に二、三度は必ずやる。
服を着替えるときも、また然しかりである。私はクサい小説家になるのはいやなので、日に3回は着替えをする。子供のころおふくろに言われた通り、シャツはパンツの中に入れ、パジャマの上衣はズボンの中に収める。こうすると腹が冷えない。長年の習慣により、この着衣時の動作もいちいち考えずに行ってしまう。
すなわち、パンツをはくたびにああっと声を上げて倒れることになる。
先日など、パンツをはいて倒れ、しばらくのたうち回ったあとようよう痛みが治まったので、気を取り直してモモヒキをはいたとたん、またブッ倒れた。
さらに困ったことは、大便後の後始末である。生れてこのかた、クソは毎日するものと決まっているので、いちいち考えながらケツを拭きはしない。
しかもまずいことに、私は用便中読書にいそしむ癖があり、トイレは神聖なる思惟の場であると認識しているので、特設の書棚にはことさらこむずかしい専門書が常備されている。ちなみに、クソの出が良い書物といえば、まず東洋文庫の中国思想関係書、防衛庁戦史室の編纂にかかる戦史叢書(そうしょ)、加うるに競馬四季報。なるたけ活字のギッシリ詰まった難解な書物がよろしい。シャレではないが、永井荷風の『断腸亭日乗』もクソヒリ本としての効果は大きい。
要するに『中国思想のフランス西漸(せいぜん)』なんて、バカバカしいぐらいに難しい本を読んでいれば、まさかてめえの四十肩などに心を配るいとまはなく、やおらグイと右手をケツに回してしまう。ただし、大声でああっ、と唸っても家人に怪しまれない場所であることは幸いである。
この②の体位に変則バージョンがあることを近ごろ知った。車の運転は、右手を後方に回すことなど有りえないから、けっこう安心していられる。ところが先日、後方視界の悪い場所でバックを試みた。右手でハンドルを握ったまま、左手で助手席を摑み、体をグイと振り向けたら、ああっとそのままブッ倒れてしまった。なぜだッ、とよくよく考えてみれば、答えは簡単であった。腕は回さなかったが体の方が回ったのだから、腕を回したのと同じことなのであった。