注射もいやだし、体操もいやだ
さて、③の「掌もしくは肘をつく動作」ができなくなったのはこの冬からである。
暮の中山競馬場において、ゴンドラ席のテーブルに肘をついて双眼鏡を覗いたところ、ああっと叫んで俯伏せてしまった。ゴール前のデッドヒートならまだしも、スタート直後であったからたいそう恥ずかしい思いをした。以来、掌もしくは肘をつくという動作が全くダメになった。
しかし、この動きも日常生活には多い。年とともに脚力が衰え、手の力に頼るから、起居動作のほとんどは掌もしくは肘をついて行う。気をつけて左手を使うようにしているのだが、それとていちいち考えるわけではない。
まずいことにこの動作でギクッとやると、アクションが小さい分、はためには何だかわからんうちにひどく苦しんでいるように見えるらしい。
たとえば先日、サウナルームの中で一段上の席に座り直そうとして床に手をついたとたん、ああっと白目を剝(む)いた。二流作家であるが一流サウニストである私は、他人がビックリするほど長時間の発汗に耐える。このとき周囲にいた人々が、みな私の脳卒中か心筋梗塞を疑ったのは無理からぬことであった。
現在、症状はさらに進行しているように思える。「ああっ」と声を上げる動作の範囲は、徐々に狭まってきているような気がする。医者に行ってブロックしてもらえば痛みはなくなるというのだが、注射はいやだ。
そこで、家庭医学百科を繙(ひもと)き、「五十肩体操」なるものを実践することにした。ちなみに、ナゼか「四十肩」という病名はない。
五十肩体操(A)──適当な長さの棒を用意し、その両端を痛い方を上、痛くない方を下にして握り、下の手で棒を突き上げる。
五十肩体操(B)──壁に向かって横向きに立つ。一歩離れて痛い方の手を壁に当て、手首と指を動かしてできるだけ上までせり上げる。次に正面を向いて同じ動作。
五十肩体操(C)──テーブルのそばに立ち、痛くない方の手を乗せて体を支える。痛い方の手でアイロンを持ち、前後左右に動かす。
五十肩体操(D)──かもいにロープを掛け、痛い方の手ができるだけ上に持ち上がるように、痛くない方の手で引っぱる。
と、このメニューを継続して行えば、数ヵ月で完治し、再発することはないそうだ。
だがこの体操は考えただけで痛い。おそらくは、さあ始めるぞとその恰好をしたとたん、ああっと叫んでブッ倒れるにちがいない。痛みをこらえて実行するなど、ほとんどハラキリを連想させる。
データによれば、この痛みは一過性のもので、時期を過ぎれば自然に治るそうだ。しかし時を待つほど誰しもヒマではあるまい。
ご同輩はどのように抗っておられるのか、良い方法をご存じの方はお教え願いたい。
(初出/週刊現代1996年2月3日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『日輪の遺産』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。