「亀鑑について」
カツドウが大好きだったサダやん
サダやんは子供のころから、カツドウが大好きだった。
寝ても覚めてもカツドウのことばかりを考え、大きくなったら映画監督になろうと心に決めていた。
父親は下町の扇子職人で、サダやんは六男坊だからたいそうな小遣はもらえない。学校から帰ると新京極まで走って行って、京都座のまわりをうろうろしたり、マキノキネマのスチール写真を覗きこんだりして一日を過ごした。
開幕ベルが鳴るとモギリの足元に膝を抱えて蹲(うずくま)り、洩れ出てくる弁士の声に耳を澄ました。やがて夜も更け、興奮さめやらぬ群衆がどやどやと映画館から出てくる。
サダやんは膝を抱えたまま人々の声を聴き、目をつむって銀幕の匂いを胸いっぱいに吸いこむ。そうしてカツドウの風に触れているだけで、とても幸せな気分になった。
サダやんはそれぐらい、カツドウが大好きだった。
夢は叶った。商業学校を卒業すると、サダやんは等持院のマキノ映画に入社した。所属は台本部だ。市電を乗り継いで撮影所に通う間、サダやんは誰かに話しかけられても気付かぬくらい、先輩の脚本や小説に読み耽(ふけ)っていた。
どうしても監督になりたかった。日本中の観客が溜息をつくような映画を、自分の手で作りたかった。
「昼あんどん」と呼ばれた。顔がゲタのように大きくて、動作がのろくて、いつもボウッとしているように見えたから、そんな仇名がついた。だが、行灯(あんどん)のようにぼんやりしていたわけではない。サダやんの頭の中は、いつだってカツドウのことでいっぱいだったのだ。
一生けんめい、30本もの台本を書いて、サダやんは助監督に抜擢された。マキノのエース、井上金太郎監督の組だ。しかし昼あんどんのサダやんは、助監督の雑用などそっちのけで、いつもキャメラのうしろにつっ立っていた。すきあらばファインダーを覗いて、監督にどやされた。
昭和の初めのそのころ、映画は最大の娯楽産業だった。いきおい映画会社の消長は激しく、サダやんをめぐる環境はあわただしく変化した。
収入も不安定だったし、人間関係も複雑だった。しかしサダやんにとって、そんなことは問題ではなかった。苦労も感じなかった。はた目には昼あんどんに見えたかも知れないが、サダやんの胸はいつも真夏の太陽のように燃えていた。
世界中の観客が拍手喝采するような映画を、自分の手で作りたかった。
そしてついに、チャンスがめぐってきた。昭和6年、サダやんはあこがれのメガホンを握った。満22歳の監督デビューだった。
明けて昭和7年1月に封切られたこの「磯の源太・抱寝の長脇差」は、大好評を博した。サダやんはまるで矯(た)めに矯めていたものを一気に吐き出すように、その年のうちに5本の作品を撮った。
サダやんは一躍、京都映画界の寵児となった。昭和7年末、大枚2000円の支度金を受けて日活に入り、「薩摩飛脚」「盤嶽(ばんがく)の一生」「鼠小僧次郎吉」の3本を撮り、翌年にはさらに千恵蔵プロで、「風流活人剣」など4本の作品を世に送り出した。
名声は不動のものになった。だが25歳のサダやんの胸の中は、新京極の劇場の玄関で膝を抱えていた子供のころと、どこも変わってはいなかった。
お金も名声も、サダやんにとってはどうでもいいことだった。相変わらず寝ても覚めてもカツドウのことばかりを考え、ボサボサの髪にヒゲ面で、いい映画を撮ることだけを考え続けていた。
その証拠に、サダやんは自分の撮った映画を試写の1回きりしか見ようとはしなかった。
「あかん。わし、よう見んわ」と言った。
昭和12年、サダやんは東京に進出した。東宝の前身「P・C・L」に移籍し、新進劇団前進座とタイアップして、新たな挑戦をしたのだった。