父としての責任を全うした男の死
おとついの朝、ヒロシが死んだ。そしてきのうの朝、ヒロシの次女が死んだ。
親子の通夜に行き、ホテルに戻った私にはこの原稿のほかにできる仕事がない。
やさしく、温厚なヒロシは、まったくそのまんま大人になった。旧家のならわしに従って、幼ななじみのいとこと結婚をし、2人の女子に恵まれた。次女のミッちゃんは生れながらにして重度の障害を持っていた。17歳の享年に至るまで、歩行もできず、言葉も話せず、わずかな表情の動きでかろうじて意思表示をするばかりであった。
ヒロシが突然の心臓発作で死んだちょうど24時間後に、ミッちゃんの心臓も止まってしまった。まことに説明のつかない、負の奇蹟である。亡くなる前の晩、多忙な営業マンであったヒロシは珍しく早くに帰宅し、ミッちゃんを抱いて風呂に入ったそうだ。
17年間のヒロシの苦労を、私はよくは知らない。言うにつくせぬ苦労であったことは察せられるが、苦労と呼ぶことをヒロシは潔しとしないであろう。17年の間、ヒロシはミッちゃんを愛し続けたと思う。世界中の、どんな父親にも増して。
働き過ぎだと、誰かが言っていた。急激に肥り過ぎたのだ、とも。たしかにヒロシは良く働き、良く食った。そして、日ましに硬直していくミッちゃんの命を、支え続けた。
遺された家族のことを考えて、ヒロシはミッちゃんを連れて行ったのだと、誰かが言った。また、ミッちゃんは大好きなおとうさんについて行ったのだ、とも。ミッちゃんはきっと父の死を察知して、自分の意思で心臓を止めたのだろう、と。
どれもまちがいではあるまい。だが私は、釈然としなかった。どうして親子の心臓が、一緒に止まってしまったのだろうか。
辞去するとき、2人の亡骸(なきがら)と対面した。
ヒロシの死顔はまことに安らかな、満たされた表情であった。ミッちゃんの顔も同様に幸福そうであったが、その片掌(かたて)に収まりそうな小ささは、明らかに生命の限界を感じさせるものであった。
そのとき、私ははっきりとこう思った。
ヒロシは、医学的にはとうに終っているはずのミッちゃんの生命を、あらん限りの愛情をもって支えていたのであろう。そして、その死がついに支えきれぬところまで迫っていることを感じたあの夜、心のそこから、娘とともに逝くことを祈ったのであろう。天が、その真摯(しんし)な祈りを聞き届けたのである。
そうでなければ、46歳の男の死顔があれほど安らかなはずはない。病み衰えた少女の死顔が、あれほど幸福そうなはずはない。ヒロシとミッちゃんの顔は、温かな湯舟の中で見つめ合うかのように、微笑(ほほえ)んでいた。
一緒に風呂に入ったあの晩、父はたぶん娘に何ごとかを語りかけ、娘は肯(うなず)いたのだろう。何を言い、何を聞いたか、その静謐(せいひつ)な親子の対話は、小説家の想像などの思い及ぶところではない。
奇しくもミッちゃんは、私の娘と同い年である。誕生から今日までの長くもあり、短くもある日々に思いをいたせば、涙を禁じえない。
通夜の客はみな慟哭(どうこく)していた。だが、この弔いの席でだけは、どうしても涙を見せてはならないと私は思った。
たそがれの山道をずっと手をつないで帰ってくれたヒロシの掌(てのひら)の温かさを、ありありと思い出したからである。あのときヒロシは、彼のやさしさのために泣き続ける私を、「泣くなよ、もう泣くなよ」、と励まし続けてくれた。
理不尽を感ずる。釈然とはしない。だが私は無理にでも、ヒロシの人生はすばらしいものであったと、幸福なものであったと思うことにする。
少くとも私は、彼ほどやさしさと強さを併せ持ち、しかも父親としての責任を全うした男を、他に知らない。
それで、いいだろう。
幼い日、みんなで唄った「少年探偵団」のテーマソングが耳に甦る。
ヒロシは、瑠璃(るり)色に輝く凜凜たる勇気を、生涯持ち続けた。
捧げる誄(るい)は、それに尽きる。
(初出/週刊現代1996年11月16日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。