「句会に参加した作家は仲良くなる」
午後1時。ただならぬ緊張感のうちに句会は始まった。しかも、ルールがまたすごいのである。いきなり各人がそれぞれ題を出せ、という。すなわち6つ出揃ったお題について、60分以内に六句以上を作れ、というのである。まったく心得のない私にしてみれば、1週間で400枚の小説を書けというよりまだ難しい。
せめて自分の題だけでも簡単そうなものをと考え、「冬空」という極めて安直な題を出したものの、並いる俳人の皆さんはまるで私個人を責めるかのように無理難題を提示する。
いわく、「静電気」「時計」「神楽」「軸」「初」。
これでは1時間に六句はおろか、1日かかったって一句もできないのではあるまいかと私は青ざめた。バンジージャンプの方がまだマシだと思った。
苦吟のままに時は刻々と過ぎて行く。人々はさして思い悩むふうもなく、サラサラと短冊に筆をすべらせている。私ひとり跳躍台の上で石になっていた。
突如として妙案がうかんだ。そうか、俳句だと思うからいけないのだ。十七字の短篇小説だと考えればよいのではないか、とものすげえ発想の転換をしたあげく、私は音羽の番頭に原稿用紙を請求した。
するとあらふしぎ、条件反射というかパブロフの犬というか、1時間後にバイク便が原稿取りにやってくるといういつもの切迫感がひしひしとつのり、ほとんど自動書記のごとく筆が進み始めたではないか。
こうしてとにもかくにも、六句をなした。ぴったり1時間後に筆を擱(お)いた私は、まさに気息奄々(えんえん)たるありさまであった。
ふしぎなことに、句を吟じおえてしまうと座は急になごやかになった。午後6時までたっぷりと時間をかけて、それぞれの句を採点し、講評をし合う。まさにバンジージャンプのあとで芝生の上に車座になって、過ぎし緊張の一瞬を語り合う楽しいひとときであった。
後に小林恭二氏から伺った話であるが、この緊張と弛緩との落差が大きければ大きいほど、句会は良いものになるのだそうだ。
やがて私たちは快い弛緩にひたったまま、凩(こがらし)の吹く町に出た。ソバを食い、酒を飲み、夜も更けるまで語り合った。
作家はおしなべてプライドが高く、たとえ泥酔しても己れの本音を語ることがない。プライドを維持すること自体が足場(スタンス)の確認であり確保であるのだから、自然とそうなる。
だがどういうわけかこの夜に限って、彼らはとうとうと書くことの苦しみを口にし、私も珍しく愚痴を言った。
ふと、音羽の番頭が会に先立って言った言葉を思い出した。
「句会に参加した作家は仲良くなる」のだそうだ。要するに、緊張のあとの弛緩がそうした親密な関係を作るのであろう。本来タブーとされている己れの苦悩を晒(さら)し合ってしまえば、たしかにどの方も他人とは思えない。
文壇という慢性的に緊張した閉鎖社会の中で、こうした句会のもたらす福音ははかり知れない、と思った。音羽の番頭は私をうまく嵌めてくれたのであろう。
真夜中の路上で別れたとき、何だか同窓会のはねた後のような気分になったのは、ひとり私だけではあるまい。
年内に400枚の小説をそっくり書きおろし、それとは別に100枚を仕上げ、もちろん2本の週刊誌連載もこなさねばならない。営業スケジュールもつまっている。どう頑張っても、小説現代から依頼されている短篇だけが、年を越してしまう。
初空に 散り残りたる 黄櫨一葉(はぜひとは)
(初出/週刊現代1995年10月7日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。