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 われわれは結果論の世界に生きている。なにをいまさらと言われるかもしれない。しかしここ数年ですら、身の回りに起こったことを、あるいは社会に起こったことを思い返してみても、あなたがいまいるその場所や時間が、いかに予想もつかない結果の末に到来したものであるか、よくわかると思う。

 コロナを予想して生活をあらかじめ変化させていた人などいないし、われわれは夕方の雨でさえ、傘を持って出かけないのだ。私は私の人生をなんも予想できなかったから、いまの暮らしも仕事も趣味も、まったく予想外の末にたどり着いた結果だとしか言いようがない。いまここで、こんな文章を書くようになるなんて、まったく想像していなかった。

■「結果」を常に求められる過酷さ

 あなたも私も、結果論の最新の結果として、思いもつかない現在を生きているのだろう。振り返ると「なるべくしてなった」と感慨のひとつくらいつぶやきたくもなるが、私たちの人生のほとんどは、行きがかり上やってくる毎瞬を場当たり的に対処し、その結果がただ連なった時間なのだと思う。行きがかり上やってきては過ぎ去る私たちの時間は、振り返るべくもないのだ。

 しかし結果論はなにかにつけて振り返りを求める。折に触れ私たちを振り返らせては、「あの時あっちを選択していれば」とか「あの時なぜそうしなかったのか」といった後悔をもたらす。やっかいな存在だ。結果論とは、ことあるごとにその判断や行動が正しかったかどうかの評価を求めるふりして、自責を溜めこむ過酷な考え方なのかもしれない。

 結果論が立ち塞がるのは、生活だけではないだろう。仕事の現場などは、結果論がいきいきと横行する場でもある。とくになんらかの目標を宣言して、期日内にその遂行を組織や上司から求められるような職種は、いつも力ずくの結果論に悩まされているのではないか。そもそも、あとからなんとでも言える結果論は、あとからなんとでも言う側が圧倒的に有利なのだ。

 つまり仕事における結果論は、あなたへの詰問を伴う。とりわけあなたがよい結果を納められなかった場合に向けられる詰問は、「なぜ結果が悪かったのか」といった類であろう。それにあなたが「準備不足でした」なり「目標設定が甘かった」なりを答えても、打ち返されるのは「なぜ準備不足になったのか」「なぜ目標設定が甘かったのか」といったさらなる詰問だ。以降はお察しの通り、エンドレスで重なる「なぜ」である。

 終わりのない「なぜ」はキツい。なにを答えようが会話にならない繰り返しの先に、具体的な問題解決が見えることもなく、ただ自責の追求だけが積み重なる。そんな時間はもっとも精神にくる時間のひとつではないか。なんとでも言える主体が自分になく、相手に渡ってしまう会社勤めの結果論は、その場を去るくらいしか、私も対抗策が思いつかない。やはり結果論は過酷だと思う。

 しかも仕事の結果論は、結果を見る前に結果を見積もることまで求められるのだ。私に近しい職場なら、広告を実施したあとの売り上げの伸び、あるいはアイデアや企画を実施した時の反響を数値で予測することを求められる。卑近な言い方をすれば、SNSに投稿する前にどれだけバズるかをあらかじめ宣言せねばならないのである。

 結果論の前に結果を宣言し、結果論の後に結果を詰問される。やってみないとわからないことを、あとからなんとでも言われるのを承知でする仕事なのだ。費用対効果の名の下に、その矛盾はあまりに殺伐ではないかと、私は長年思い続けているのだが、似たような過酷さを感じてきた人はきっといるはずだ。

 一方で結果論に晒されるのは個人や会社員だけではないのかもしれない。そう思うようになったのは、お客さんからあらゆる声が寄せられる、会社のSNSアカウントを運営してしばらく経った時だった。企業活動や経営状況を見られることで、「なぜあの時そうしなかったんだ」という世間やステークホルダーの声を通じて、企業も結果論に晒され続けているのだ。

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山本隆博
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