「皇室と沼津」 明治の皇后が愛したタケノコ狩りと料理、元皇室記者が訪ねた

大中寺境内の竹林

明治天皇の后(きさき)であった美子(はるこ)皇后(のちに昭憲皇太后、1849~1914年)が愛した禅寺が、静岡県沼津市にある。相模湾を臨む旧沼津御用邸跡(明治26年造営、昭和44年に廃止)から北へ約5キロ離れた愛鷹山(あしたかやま)の麓にある臨済宗妙心寺派の禅寺・大中寺(だいちゅうじ)で、鎌倉時代末期から室町時代初期の禅僧、夢窓疎石(むそう・そせき)が創建したと伝えられる。静養と避寒のため、晩年、沼津御用邸に長期滞在する期間が長くなった皇后は、この禅寺を9回も訪ねている。近代の幕開けとともに、洋装の先駆者として激動の明治を疾風のように駆け抜けていった皇后。晩年の彼女をひきつけた大中寺の魅力とは何だったのか。明治の皇后が亡くなって110年後の初秋、大中寺を訪ねた。

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明治天皇の后(きさき)であった美子(はるこ)皇后(のちに昭憲皇太后、1849~1914年)が愛した禅寺が、静岡県沼津市にある。駿河湾を臨む旧沼津御用邸跡(明治26年造営、昭和44年に廃止)から北へ約5キロ離れた愛鷹山(あしたかやま)の麓にある臨済宗妙心寺派の禅寺・大中寺(だいちゅうじ)で、鎌倉時代末期から室町時代初期の禅僧、夢窓疎石(むそう・そせき)が創建したと伝えられる。静養と避寒のため、晩年、沼津御用邸に長期滞在する期間が長くなった皇后は、この禅寺を9回も訪ねている。近代の幕開けとともに、洋装の先駆者として激動の明治を疾風のように駆け抜けていった皇后。晩年の彼女をひきつけた大中寺の魅力とは何だったのか。明治の皇后が亡くなって110年後の初秋、大中寺を訪ねた。

晩年の皇后を惹きつけた大中寺

美子皇后(昭憲皇太后、写真=学習院大学資料館所蔵)

皇后や嘉仁皇太子ら皇族方の訪問の記録が事細かく記されている大中寺の「行啓記」などによると、皇后が大中寺を最初に訪ねたのは、明治42(1909)年2月22日だった。馬車で到着した皇后は、境内の「白雲軒」での昼食後、観梅を楽しんだ。その6日前には、明治天皇の孫である当時7歳の裕仁親王(のちの昭和天皇)ら皇孫3人が大中寺を訪ねているが、皇后はこの年の4月9日にも大中寺を訪問。境内の桜をご覧になるとともに、竹林でタケノコ狩りを楽しんだ。

皇后は57歳の時の明治39年から、嘉仁皇太子(のちの大正天皇)の静養先として造営された沼津御用邸に滞在するようになる。近隣の千本浜海岸や田子の浦、旧東海道沿いにあった植松与右衛門邸の庭園(帯笑園)などの名所にも馬車でたびたび外出していたが、明治41年秋、大中寺の門前に根方街道が開通して、馬車の通行が可能となり、翌年の大中寺来訪が実現した。以来、皇后の大中寺訪問は御用邸滞在中の恒例になり、亡くなる大正3(1914)年までに延べ9回を数えた。

皇后がこれほど頻繁に大中寺を訪問されたのはなぜか。

女官たちのタケノコ掘りの様子を見て哄笑(こうしょう)された皇后

「皇太后さまの心を解き放す空間と人間が存在したということではないでしょうか。御用邸は海で、こちらは山。ちょうどいい距離感の山寺の禅寂をお気に召されたことに加え、当時の住職(真覚玄璋)とそりがあったのでしょう。楽しいからこそ来訪を重ねられ、住職も無常の喜びで皇太后さまを迎えられた」。

下山光悦住職(77)は、こう推察した上で、「一番の楽しみは、タケノコ狩りだったのでしょう」と話す。

皇族を迎えるために新築された大中寺の「恩香殿」。皇太后の命日には、毎年、タケノコご飯などが供えられる

大中寺訪問の時も、皇后宮大夫の香川敬三や侍医、武官をはじめ、明治天皇の側室であった柳原愛子(やなぎわら・なるこ)典侍ら高級女官ら数十人が随行した。皇后がタケノコ狩りをご覧になったのは孟宗竹の林の中である。お供の女官たちが息弾ませてタケノコを掘る様子を見て、声高く笑われたという。このことにちなみ、皇后を鳳凰になぞらえて「鳳鳴林」と刻まれた石碑も竹林の手前に残されている。

皇后自ら洋装化を進めて日本の近代化を促進

大中寺では皇后をはじめ皇族を迎えるための御殿を新築し、嘉仁皇太子の側近の三島中洲によって「恩香殿」と命名された。明治43年2月、皇后は観梅後に新築の恩香殿で昼食を召されている。その後、毎年4月のタケノコ狩りをご覧になった時には、恩香殿で昼食されたこともあるが、皇后の一行には食事を担当する大膳課の係員が随行する。このため、昼食の際にタケノコご飯などが振る舞われたのか、は定かでない。しかし、明治45年4月の訪問の際には、大中寺からタケノコ12貫目を献上され、皇后に供奉するお供の者に「里芋甘藷蒸物」などを提供されたとの記録もある。

何よりも、皇后と大中寺との交流の深さを示す証(あかし)がある。皇后皇太后から大中寺に下賜された白羽二重(しろはぶたえ)の絹地を用いてつくられた袈裟(けさ)だ。金糸で寺紋五三桐を、色糸で牡丹を刺繍した。牡丹の刺繍は、皇后が滞在した白雲軒の軒下に植えてあったことにちなむ。

皇太后が大中寺に下賜した白羽二重で調製された袈裟

寺では、桐箱に入れて大切に保管していたが、下山住職は「一介の山寺の住職に、昭憲皇太后さまから当時の最高級品種である小石丸で作られた白羽二重が下賜されたこと自体、異例中の異例でしょう。皇太后さまの温情を後世に伝えるため、寺では住職の法衣である袈裟に仕立てた。完成後、恩賜の法衣を皇太后さまにもご覧になって頂いた栄誉にも浴した」と目を細める。

皇后は、日本が近代化していく中、女子教育の育成や福祉、医療の推進に尽力した。とりわけ、初代総理大臣の伊藤博文が進める宮中改革に協力し、明治19年7月に初めて洋装で華族女学校に外出して以来、洋装で外国人と面会するなど西欧流の新たな役割を次々と引き受けた。皇后が昼食会や面会などの際に着用した「仕事着」の宮廷ドレスも全国各地の神社仏閣などに残されている。

大中寺に下賜されたものは宮廷ドレスではないが、それに準じる品格を感じさせる贈答品だった。

明治の皇后が亡くなられて今年で110年。命日の4月11日、寺では毎年、恩香殿の仏前にタケノコご飯や若竹汁(タケノコとワカメのお吸い物)などを供える。

吉原康和(よしはら・やすかず)
ジャーナリスト、元東京新聞編集委員。1957年、茨城県生まれ。立命館大学卒。中日新聞社(東京新聞)に入社し、東京社会部で、警視庁、警察庁、宮内庁などを担当。主に事件報道や皇室取材などに携わり、特別報道部(特報部)デスク、水戸、横浜両支局長、写真部長を歴任した。2015年から22年まで編集委員を務め、宮内庁担当は、平成から令和の代替わりの期間を中心に通算8年。主な著書に『歴史を拓いた明治のドレス』(GB)、『令和の代替わりー変わる皇室、変わらぬ伝統』(山川出版)、『靖国神社と幕末維新の祭神たちー明治国家の英霊創出―』(吉川弘文館)など多数。

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