マツダAZ-1はガルウイングドアを備えた軽自動車ミドシップスポーツで、生産終了後に話題になりました。今では新車価格の倍の中古車も存在するほどプレ値が付いています。日本のクルマ史に名を残す個性派スポーツです。
画像ギャラリー今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第41回目に取り上げるのは1992年に登場したマツダの軽ミドシップスポーツのオートザムAZ-1だ。
百花繚乱1989年の東京モーターショー
1989年の東京モーターショーは、クルマ好きにとってまさに楽園だった。長らく開催されていた晴海(東京都中央区)から幕張メッセ(千葉県千葉市)に会場を移した第一回目。12日間の期間中に192万人が来場し、一日あたり16万人超という来場者数は現在も破られていない金字塔だ。
市販モデルではトヨタセルシオ、日産インフィニティQ45、スカイラインGT-R、フェアレディZ、マツダロードスターといった話題のクルマが多く展示されていた。一方市販前提車としてホンダNS-X(コンセプトカーはハイフンが入る)、三菱HSX(GTO)、トヨタセラ、マツダユーノスコスモなどもわくわくさせてくれた。
一方コンセプトカーも強烈で、トヨタ4500GTを筆頭に三菱HSRII、いすゞ4200R、スバルSRDなどなど大物揃い。バブル景気にイケイケ状態にあった日本を象徴するイベントだが、バブルのひと言で片づけられない勢いがあった。
AZ550 SPORTSは3タイプ
そんなイケイケ状態の東京モーターショー1989でマツダは、前述のとおり発売したばかりのユーノスロードスター、これから発売するユーノスコスモを出展し、黒山の人だかりを作っていたが、コンセプトカーで最も注目を集めたのが超小型ミドシップスポーツ『AZ550 SPORTS』だった。
AZは今後マツダが展開するAutozam(オートザム)ブランド、550は当時の軽自動車規格の排気量を組み合わせたもの。つまり、マツダが提案する次世代の軽スポーツのコンセプトカーだった。
AZ550 SPORTSはタイプA、タイプB、タイプCの3種類が用意されていた。当時のマツダでは、Aタイプはニューコンセプトビークル、Bタイプはハイチューンド・ピュアスポーツ、CタイプはプチCカー(軽自動車をベースにグループCのレーシングマシンをモチーフとしたデザインを与えたモデル)と説明していた。
画期的な技術をアピール
3タイプが公開されたAZ550 SPORTSだったが、それはマツダの新開発技術をアピールするためだった。スケルトンモノコックフレームは、法規では許されていないが、ボディなしでも走行可能な強度を確保。そこに自由自在に外板パーツを貼り付ることで、同じフレームから異なるデザインのモデルを簡単に作ることができる。
現行のダイハツコペンがDフレームの採用によって、ローブ、エクスプレイ、セロという3タイプのボディデザインをラインナップしているのと同じ手法だ。
ショーモデル試乗会を開催
東京モーターショーで公開され一躍注目の的となったAZ550 SPORTSへの反響は凄まじく、来場者は市販を切望。
マツダもノリノリで、東京モーターショー後にマツダはAZ550 SPORTSのマスコミ向け試乗会を開催。3タイプあるなかショーで一番人気だったのはBタイプだったが用意されていたのはAタイプ。そう、マツダでは市販するならAタイプと決めていたようなのだ。このAタイプは、リトラクタブルヘッドライトを備えた低いノーズ、ウェッジシェイプのボディにガルウイングドアを備える特徴的なデザインでいかにもコンセプトカーと言った感じ。だから市販する時には、普通のヒンジタイプのドアになるだろう、というのが大方の予想だった。
走りに関しては、試乗した評論家は、「スパルタンでファン!! 地齋に操ることができるが、まだ煮詰め不足」というものだった。
軽スポーツへの注目度が高まる
その当時ハイパワースポーツが続々と登場する一方で、軽スポーツにも注目が集まっていた。ダイハツミラターボ、スズキアルトワークスの人気は高かったが、一石を投じたのが1991年5月にデビューしたミドシップ軽オープンスポーツのホンダビートだ。ホンダが作った軽スポーツという付加価値もあり大人気となった。
それに続いたのが軽の老舗スズキで、1991年11月にデビューした。このカプチーノはAZ550 SPORTSと同様に東京モーターショー1989に出展されていた。駆動方式はFRで、ハードトップ、Tバールーフ、タルガトップ、フルオープンの4タイプを変幻自在に楽しめる脱着式のルーフが特徴となっていた。FRということで小さいながらもロングノーズ&ショートデッキのデザインはスポーツカー然としていた。
平成のABCトリオ完成!!
そして軽自動車スポーツの最後に登場となったのがマツダAZ-1で、ビートの登場から1年半遅れで1992年10月にデビュー。車名はAZ550 SPORTSではなく、AZ-1と変更されていた。
クルマ関連でABCといえば、アクセル(Accelerator)、ブレーキ(Breake)、クラッチ(Ckutch)と自動車教習所で習ったかと思うが、AZ-1、ビート(BEAT)、カプチーノ(CAPPUCCINO)の頭文字をとって『平成のABCトリオ』と呼ばれた。
同じ軽自動車スポーツでも、似たところがまったくなくそれぞれがオリジナリティをいかんなく発揮。三者三様でそれぞれが独自のスタンスを追求しているのが凄い。
伝説の平井氏が開発を担当
AZ-1の開発責任者は平井敏彦氏。平井氏と言えば、ロードスターの生みの親で、初代のユーノスロードスターの開発責任者だったことで有名。『クルマは走って楽しくなきゃ』ということをポリシーとしている方で、AZ-1にはその開発理念が随所に盛り込まれていた。
市販車としては少々過剰な部分があり賛否分かれたが、日本のスポーツカー史に確実に名を残す個性はスポーツだったのは間違いない。
平井氏はマツダ退社後には、大学で教鞭をとり後進エンジニアの育成に励むなど尽力されていたが、2023年4月11日に永眠された。
スズキからエンジン供給
1980年代中盤のマツダは、①ライトウェイトスポーツカーを創り出す、②新たなジャンルのクルマの提案、③軽自動車の復活、という3つの目標を掲げていた。①はユーノスロードスターで実現、②は日本では販売面で苦戦したが初代MPVで実現。そして③は1989年にスズキのアルトのコンポーネントを使って誕生した2代目キャロルで実現。
マツダは販社から軽自動車の復活を強く要望された結果、スズキとの関係構築に成功。AZ-1はその産物のひとつで、画期的なスケルトンモノコックフレームはマツダオリジナルながら、エンジンはアルトワークス用の直列3気筒DOHCターボを搭載。ちなみに東京モーターショー1989に出展されたAZ550 SPORTSは、スズキとの軽自動車での協業が決まっていなかったため、エンジンはミラターボ用のものを搭載していた。
スズキのエンジンを使ったAZ-1は、スズキではキャラの車名で販売され、数が少ないと言われるAZ-1よりもさらにレアなモデルだ。それにしても1993年から1995年までの約2年間、何よりも効率を重視するスズキがカプチーノとキャラという2タイプの軽スポーツを販売していたのは凄すぎる事実だ。
固定式丸型ヘッドランプに換装
市販化されてAZ-1と車名変更を受けたが、コンセプトカーほぼそのままで登場。最大の変更点は、ヘッドライトがリトラクタブルから固定式の丸灯になったこと。これにより何とも言えない愛くるしい表情となっている。しかし、最大の特徴であるガルウイングはそのままで登場。ピラーにヒンジが装着された跳ね上げ式ドアは、トヨタセラがあったが、ルーフにヒンジの付いた正真正銘のガルウイングはAZ-1が日本初となる。
そのほかでは企画変更によりエンジンが657ccに排気量アップされていた。ピークパワーは現在まで続く軽自動車の自主規制の64ps、最大トルクは8.7kgmをマーク。
超スパルタンなハンドリング
コンセプトカーから変わらないと言えば、自慢のスケルトンモノコックフレームで、AZ-1は外板にFRPを使用することで、車重はなんと720kgの超軽量で登場。
そしてスポーティなハンドリングを実現させるためにステアリングはロック・トゥ・ロックが2.2回転という超クイックなステアリングギア比を採用。ちなみに市販車のロック・トゥ・ロックは3~3.5回が一般的だから、いかにクイックに仕上げられていたかがわかるハズ。カート感覚のハンドリングと言われるゆえんでもあるが、ハンドルを1cm切れば車体の向きが変わると言われるなど、その挙動はシビアでもあった。AZ-1のキャッチフレーズは、「未体験ハンドリングマシン」というもので、忠実に再現されている。ただ、このステアリングギアレシオが絶賛、否定の両面の大きな要因となっていたのも事実だ。
直前にスペアタイヤの搭載位置を変更
AZ-1は市販直前に衝突時にスペアタイヤがステアリングコラムを押してしまうという安全面の理由でスペアタイヤの搭載位置をボンネットから運転席後(室内)に変更。BMWと同じくらいスポーツカーの重量配分にこだわるマツダとしては断腸の思いだっただろう。スペアタイヤの移動によって前後重量配分は空車時にフロント42:リア58、2名乗車時はフロント44:リア56となっている。リアヘビーなこともシビアな挙動の要因となってしまった。
ガルウイングドアが重い
さらにもうひとつネガティブなことがある。AZ-1の最大の特徴であるガルウイングドアだ。ガルウイングドアは見た目の派手さから採用されたのではなく、スケルトンモノコックフレームはサイドシルが高く幅も広かったため、乗降性を考慮した結果の産物だ。
コンセプトカー時にはドアはアルミ製だったが、コストがシビアな市販車は鋼板に変更したことでドア1枚で20kgを超えてしまった。重量物が重心より高い位置にあるというのは、スポーツカーにとっては非常に厳しい条件で、AZ-1のネガのひとつ。
走りへの評価は高くなかった
パワー感はないがバランスに優れた楽しいハンドリングというのがビートの走りの評価。FRらしくクルマをコントロールする楽しさを持っているというのがカプチーノの走りの評価。それに対しAZ-1の走りの評価はカート感覚で乗れる楽しさの反面、素人にとってはハンドリング、挙動が非常にシビアというものだった。
この評価に尾ひれ、背びれがついて、「AZ-1は危険なクルマ」というレッテルを張られることになるのだが、裏を返せば、素人に乗りこなせないクルマ、ということで腕自慢、マニアからは絶大な支持を受けて、そんな人は現在まで長きにわたり乗っている傾向が強い。よくも悪くも乗り手を選ぶクルマだ。だからこそ熱狂的なファンが存在する。
ネガを上げればキリがない
自動車雑誌『ベストカー』ではかつてAZ-1を実際に購入したオーナーを対象としてアンケートを実施。オーナーだからこそわかる欠点、不満点について、さまざまな意見が寄せられた。直進安定性が悪い、乗り心地が硬い、荷物を置くスペースがほぼない、シートがスライドしない、内装がチープ、車検証を入れるグローブボックスすらない、窓がほとんど開かない、夏にガラスルーフは暑すぎる、雨の日に室内がすぐ曇る、車高が低いので対向車のヘッドライトがすべてハイビームに感じる、などなど。まぁ、それでも好きな人にとってはたまらない、というのがAZ-1だ。
販売面では苦戦
AZ-1が登場した1992年といえば、バブルが崩壊した後。「いまだにスポーツカーなんて浮かれているの?」というスポーツカーに逆風が吹き始めている頃だったし、AZ-1は2シーターで5MTのみというスパルタンな設定だったこと、さらに新車価格がABSすらオプションでマニュアルエアコンが標準装備されるだけなのに149万8000円と当時の軽自動車としては破格に高かったこともあり販売面で苦戦。
AZ-1の販売目標は月販800台だったが達成した月は一度もなく、1994年に生産を終了するまで4409台を販売したのみ。一方スズキキャラはもっと少なく、合計531台。
広島県人である筆者は1994年に帰省した時に、マツダの宇品工場に大量に売れ残ってストックされていたAZ-1を見て複雑な気持ちになったのを覚えている。実際にAZ-1はその在庫がはけるのに約1年を要している。
限定モデルと特別仕様車が人気
マツダはAZ-1の販売のテコ入れのためマツダスピードバージョン、M2 1015という特別仕様車、限定車を販売。これらのモデルの成果は絶大で、AZ-1のなかでも人気が高かった。要因として、外観が差別化できたことが大きい。
外板パネルが自在に変更できるAZ-1ならではで、マツダスピードバージョンはヘッドライト回りのデザインが変更され、M2 1015についてはフォグランプを埋め込んで丸4灯風のデザインが与えられ特別感が際立っていた。
中古車は新車価格の倍以上の個体も!!
しかしあれほどストックヤードに残っていたAZ-1だが、絶版になってほしいという人が多数出現。人間関係で言う、「いなくなって初めてありがたみを感じる」というヤツだ。そのため、日本でも中古車マーケットで高騰が続いている。数が少ないこともあり、20世紀後半にはその傾向が顕著になっていたが、現在ではさらにエスカレートしている。
中古車はまずタマ数が少なく、出モノは常時10台程度。相場は220万~350万円程度で推移。特にマツダスピードバージョン、M2 1015は価格応談のモデルも少なくない。
中古車購入後注意すべき点はパーツの欠品。なかでも深刻なのはフロントガラスが生産終了している点だ。割れ、ヒビにより車検に通らないけど、パーツがないという状況になることも充分に考えられる。信頼できるショップなどに相談されたし。
アメリカで600万円超で落札
そんななか、「2024年11月、アメリカのオークションサイトcars&bidsに出品された1993年式AZ-1が、4万500ドルで、日本円に換算すると約616万円で落札された」と報道された。日本の倍近い値段で取引されていることに怖くなった。
アメリカの25年ルールによって、日本の古いスポーツカーが続々と高値でアメリカに渡っているが、AZ-1も例外ではない。AZ-1は軽自動車ゆえ日本専売だったが、クルマゲームの『グランツーリスモ』に登場したこともあり、意外なほど海外で知名度がある。しかも、オモチャみたいな大きさのスポーツカーとして人気なのだ。
登場時期が悪かった
AZ-1は絶版後に注目度が集まった典型的なモデル。死後有名になった芸術家のごとく、今でもその人気は衰え知らず。まぁ、1992年というデビュー時期が最悪だったのが苦戦の要因と考えられる。ありきたりの表現だが、『登場時期が悪かった』。せめてあと2年早く、または10年後にデビューしていれば変わっていたのは間違いないだろう。
上記にあるとおり海外でも人気で特にアメリカへの流出はご遠慮願いたい。できることなら、欲しいと思う人にある程度適正な価格で回ることを願う。
【マツダオートザムAZ-1主要諸元】
全長3295×全幅1395×全高1150mm
ホイールベース:2235mm
車両重量:720kg
エンジン:657cc、直4DOHCターボ
最高出力:64ps/6500rpm
最大トルク:8.7kgm/4000rpm
価格:149万8000円(5MT)
【豆知識】
ホンダが1991年に登場させた軽オープンスポーツ。ホンダのオープンカーとしてはシティカブリオレ以来、オープンスポーツとしてはS800以来ということで大注目。エンジンは656cc、直4DOHCで64psをマークするが、他社がターボエンジンで64psだったのに対し、ビートはNAで達成していたのがホンダらしいところ。ターボでないのでトルクが細く、「ビートは遅い!!」と言われることもあったが、操る楽しさは最大限に評価されていた。そのビートの実質後継車がS660で、ビートの消滅後9年ぶりとなる2015年に登場(2022年3月生産終了)。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/MAZDA、HONDA、ISUZU、ベストカー