新昌が24歳の時、ワシントン州オリンピアを視察中、Seafarm(海の農場)という看板が目に留まります。そしてオリンピア・オイスター・カンパニーに入社します。
新昌とカキとのかかわりが、ここから始まったのです。
オリンピアガキという種類のカキは、500円玉ほどの大きさです。味はいいのですが、むき身にしようとすると身が小さく、とても根気がいります。
1948年(昭和23年)、東北大学の農学部教授、今井丈夫先生が三陸の海にオリンピアガキを移入し、人工採苗に成功。わが家でも稚貝をわけてもらい、養殖した経験がありますので、新昌の苦労はよくわかります。
カキ養殖場の仕事は、冬は忙しいのですが、夏は暇になります。新昌は夏はあらゆる仕事につきました。語学学校にも通い、どんどん英語を話せるようになりました。当時、もっと大きなカキを養殖できないか、そんな声が高まっていました。ワシントン州は水産技師を日本に派遣し、広島ガキを移植しましたが、成功しませんでした。
「死んだ殻」からどんどん育つ
技師たちが移植したのは大きくなった親ガキでした。大きいほうが丈夫だと思ったからです。干潟に放流しましたが、死んで口が開いてしまいました。新昌は死んだカキの殻をその後も観察していました。すると、5ミリメートルほどの稚貝が付着していて貝の先端が伸びているではありませんか。そしてどんどん大きく育ってきました。
稚貝のほうが丈夫なのだ。日本で稚貝を生産して育てれば大きなカキができる。アメリカ人はカキを好む国民なので、種苗の輸送に成功すれば企業化できると判断したのです。
新昌は急いで帰国し、カキの種苗生産ができそうな海をくまなく探したのです。そして大河、北上川が注ぐ宮城県の石巻湾、万石浦という汽水湖に白羽の矢を立てました。稚貝の生産に成功し、カナダのバンクーバーや東京での事業を経て、1931年(昭和6年)、国際養蠣株式会社を興したのです。
岩手県でオットセイ漁、定置網漁で成功していた水上助三郎が、新昌の生きざまに共感し、経済的に支えたことは知られています。
カキ養殖の父は2人いると、私は思っています。1人は宮城新昌、もう1人はかき研究所の創設者である今井丈夫先生です。
その後、新昌が育てたカキの種苗は万石浦からシアトルに輸出され、1978年(昭和53年)ごろまで宮城県を代表する輸出品となりました。
三陸の漁民、そしてシアトル、カナダのバンクーバーまでの漁民は新昌のカキ種苗で生活を支えていたのです。