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2人の日本人

その後、シアトルのカキ養殖について書かれた小冊子と巡り会いました。

それによると、J・エミー・月本(月本二朗)、ジョー・宮城(宮城新昌)という日本人の青年が、ワシントン州オリンピアに在住していたと記されていました。2人ともオリンピアの公立学校で教育を受け、そこを卒業していました。
 
ジョーは、オリンピアのジョン・C・バーンズ家の下働きとして雇われて、学費のほとんどを稼いでいました。時間があれば、J・J・ブレンナー・オイスター社でカキむきをして働いていました。2人の青年は、夏休みの間もずっとオリンピア近くの養殖場で働き、経験を積んでいたのです。

日本産カキをピュージェット湾に移植する計画を立てていた2人は、水温、塩分濃度、その他必要な条件について情報を確保していました。

オリンピアガキの仕事を通して得た経験から、ピュージェット湾はえさの豊富な海であるというデータを積み上げていたのです。宮城新昌のカキ人生は、まさにオリンピアとともに始まったのでした。

オリンピア・オイスター・カンパニーの資料も手に入れることができました。資料によると、1878年創立で、希少種となっているオリンピアガキの養殖と採取を専門としていました。

自然分布が多いのは、ワシントン州の汽水域で、ウィラパ湾とピュージェット湾南部だそうです。小型で繊細なカキなので、干潮時に、先のとがったフォークで、岩についているカキを手作業で採取しなければなりません。選別場に運び、指の爪ほどのサイズの種ガキを出荷サイズの親ガキからていねいに外します。

種ガキは干潟の水路に戻し、親ガキはむき場に運ばれます。一個ずつ手作業でむき身にされ、きれいに洗浄して梱包し、消費者に向けて発送されるこの手順は、100年間変わっていません。

1800年代半ばに、この自生するカキの事業化が始まりました。ワシントン準州の政治家たちは、この軟体動物に強い印象を受けたと見え、「オリンピア・オイスター」と名付けました。しかし、カキはゴールドラッシュ時代でも珍味であり続けました。乱獲が続き、サンフランシスコ湾内の生息地では、ほんのわずかの間に採り尽くされてしまったのです。

この魅力のあるカキにまつわる伝説が、サンフランシスコに伝わっているそうです。ある死刑囚が、最後の食事に何が食べたいかと尋ねられ、町でいちばん高い値段の食べ物を2つ示したそうです。

1つはオリンピアガキ、もう1つは卵でした。それ以来、「ハング・タウン・フライ」(カキ、ベーコン、タマネギなどが入ったグラタン)が生まれ、今でもオリンピアガキを出すレストランで注文できるそうです。

ハング・タウン・フライの「ハング」には「吊す、縛り首にする」の意味があるそうです。ゴールドラッシュという特異な時代、犯罪者が縛り首に処せられるケースが多かったのでしょう。ハング・タウンは、サンフランシスコから120キロほど内陸にある、プラサービル(Placerville)の旧称でした。

優秀なシェフは、オリンピアガキをグルメ向けの食べ物と考えているようです。あるシェフはオリンピアガキを特製のカクテルソースに添えて提供し、また自慢のトマト果汁に入れて提供します。別のシェフはオムレツに入れるようにすすめます。グルメの客は風味の素晴らしさと身のおいしさに納得させられます。

…宮城種のパシフィック、フランスガキ、ブルーポイント、クマモト…さまざまなカキを食べ比べたところで、カキじいさんこと畠山重篤氏はハッと気づきます。その詳細は、つづく「旨いカキを探しに旅に出た漁師がアメリカの「生ガキ」に感動…思わず漏らした「衝撃の感想」」でお伝えします。

連載カキじいさん、世界へ行く!第11回
構成/高木香織

●プロフィール
畠山重篤(はたけやま・しげあつ)

1943年、中国・上海生まれ。宮城県でカキ・ホタテの養殖業を営む。「牡蠣の森を慕う会」代表。1989年より「海は森の恋人」を合い言葉に植林活動を続ける。一方、子どもたちを海に招き、体験学習を行っている。『漁師さんの森づくり』(講談社)で小学館児童出版文化賞・産経児童出版文化賞JR賞、『日本〈汽水〉紀行』(文藝春秋)で日本エッセイスト・クラブ賞、『鉄は魔法つかい:命と地球をはぐくむ「鉄」物語』(小学館)で産経児童出版文化賞産経新聞社賞を受賞。その他の著書に『森は海の恋人』(北斗出版)、『リアスの海辺から』『牡蠣礼讃』(ともに文藝春秋)などがある。

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高木 香織
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