昭和の時代、鉄道趣味の中でもマイナーなジャンルであった「廃線鉄」。私が廃線巡りと出会うきっかけは、全国組織の鉄道趣味団体に入会したことだった。中学生だった私にとって、見るもの聞くもの全てが新鮮に感じられ、その中でも特に「廃線跡」というワードに魅了された。以来、機会を見つけては全国各地を旅するようになった。今回は、その中でも1988(昭和63)年に訪れた、北海道の私鉄「定山渓鉄道」を紹介したいと思う。
画像ギャラリー昭和の時代、鉄道趣味の中でもマイナーなジャンルであった「廃線鉄」。私が廃線巡りと出会うきっかけは、全国組織の鉄道趣味団体に入会したことだった。中学生だった私にとって、見るもの聞くもの全てが新鮮に感じられ、その中でも特に「廃線跡」というワードに魅了された。以来、機会を見つけては全国各地を旅するようになった。今回は、その中でも1988(昭和63)年に訪れた、北海道の私鉄「定山渓(じょうざんけい)鉄道」を紹介したいと思う。
※トップ画像は、札幌郊外をゆく定山渓鉄道と定鉄バス(カラー復元写真)=写真提供/定山渓郷土資料館
札幌から定山渓温泉までの27.2キロを結ぶ
北海道、札幌の奥座敷として有名な定山渓温泉。いまも札幌などから路線バスが運行されているこの温泉地まで、かつて私鉄が走っていた。札幌市民にとって、「じょうてつ」と言ったほうがなじみ深いであろうバス会社は、元は定山渓鉄道という鉄道会社に端を発する企業だ。札幌市白石区にある東札幌駅から同市南区の定山渓温泉までの27.2キロメートルを結び、ピーク時には国鉄(現JR)の札幌駅まで乗り入れていた。
この鉄道は当初、観光客、木材、鉱石などの輸送を目的に1913(大正2)年に「軽便鉄道」として計画された。その2年後の1914年に定山渓鉄道は設立され、1918(大正7)年に白石駅(開業当初の駅名)と定山渓駅間が開業した。温泉客の輸送だけにとどまらず、沿線から出荷される木材や鉱石といった貨物輸送によって、順調に業績を伸ばした。
東急傘下の企業に
太平洋戦争の開戦とともに、定山渓鉄道を利用する温泉客は減少の一途を辿った。終戦を迎えると定山渓温泉は賑わいを取り戻し、会社は好景気を迎えた。1957(昭和32)年には、東京急行電鉄(現・東急)による企業買収で東急グループの傘下となった。いまでも「じょうてつ」は東急グループに属す企業であり、コーポレートマークも“東急マーク”を掲げている。東急電鉄の沿線で育った私としては、札幌の地でこのマークを見たときは、親近感と安心感が沸いたものだ。
一大プロジェクト「札幌急行鉄道」構想
定山渓鉄道を買収した東急グループを率いた五島慶太は、東急式経営に基づき、沿線での宅地開発、学校誘致などを進めた。これと同時に、定山渓鉄道も中山峠方面への路線延長や札幌駅まで国鉄線への乗り入れなどを画策した。
また、夕張鉄道(北海道江別市と夕張市を結んでいた昭和50年に廃止となった鉄道)と共同で、札幌から上江別への新規路線を計画し、さらに上江別から夕張鉄道へ乗り入れることで定山渓鉄道と夕張鉄道を一元化して、“一大交通網を整備”しようとした。これが「札幌急行鉄道」構想であった。
しかし、東急社内で検討を重ねた結果、採算性は見込めないと判断し、この札幌急行鉄道の設立は頓挫した。
札幌市の地下鉄建設、昭和44年11月1日限りで廃線
昭和30年代後半になると、沿線にあった豊羽鉱山(とよはこうざん)からの鉱石輸送がトラックに切り替わるなど、鉄道輸送に陰りが見えはじめる。計画されていた中山峠(支笏洞爺国立公園)方面への路線延長や、線路を複線化してスピードアップすることなどが実現せず、温泉客をはじめとする鉄道利用客は、道路事情の好転とともにマイカーや路線バスへとシフトしていった。
1966(昭和41)年には、沿線の踏切解消問題が浮上し、路線の高架化や廃止までもが議論されるようになった。こうした中、札幌市が地下鉄南北線を建設するにあたり、南平岸駅~真駒内駅間の用地として、定山渓鉄道の路線用地を買収して転用したいと打ち出した。
定山渓鉄道は、この提案に応じることで鉄道事業からの撤退を決め、1969(昭和44)年11月1日限りで51年間の鉄道史に終止符を打った。
在りし日の鉄道風景を訪ねて
クルマの免許を取得して北海道をドライブする・・・・昭和世代のオトコにとって、憧れのイベントだった方もおられることだろう。「廃止になった駅舎が「じょうてつ」の本社として使われているよ」。このひと言が、渡道するきっかけとなった。当時、“カートレイン”という「クルマと人」が同時に移動できるJRの寝台列車に乗りたかったのだが、時はバブル全盛の時代。チケットは即完売で、この夢は叶わなかった。
すでに、定山渓鉄道は廃線から18年が経過していたが、線路の軌跡は数多く残されていた。かつて、東札幌駅を起点に終点の定山渓駅までには、17もの駅が存在した。東札幌駅の一つとなりにあった豊平駅(とよひらえき/札幌市豊平区)は、今となっては2005(平成17)年に駅舎は解体され、高層マンションに建て替わっているが、平成初期のころは「じょうてつ本社」として二代目の駅舎建物が、そのまま使用されていた。そこにはプラットホームがあり、時間が止まったかのような在りし日の鉄道風景が残されていた。
札幌市内の廃線跡は、市街化によりその多くは姿を消しているが、終点の手前4.2kmの地点にある「一の沢橋梁」は、今でも橋台を確認することができる。終点の定山渓駅は、温泉宿泊施設に囲まれるように跡地が公園や駐車場になっており、当時は広大なヤードが形成されていたことを思い起こさせてくれる。
「定山渓郷土博物館」は2025年春以降
定山渓駅跡より、国道230号線をもう少し先に進むと「定山渓郷土博物館」という施設があった。その中には、定山渓鉄道に関する資料も少なからず展示されていた。しかし、残念なことに現在は移転作業中で休館となっているため、中を見学することはできない。なお、移転は2025年の春以降とのことだが、詳細は未定とのことだった。
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元日本鉄道電気技術協会技術主幹。芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、鉄道友の会会員。
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