意外なある大物が尽力
人気あっても作れなければ意味がない。そんななか、日産は特装車などを得意としていて技術力を持った日産と提携関係にある高田工業に協力を仰ぎ、晴れてBe-1の生産が受諾された。ただし、大量生産を前提としない、つまりは少量生産が条件だった。そこであらゆる折衝の結果Be-1は1万台が限定販売されることになった。
日本の自動車メーカーは今でこそ少量生産車を作るケースも増えているが、1980年代では『大量生産大量消費』が大原則。日産には少量生産のノウハウがなかったが、ある意外な人物が関与することになる。
その人物とはスカイラインの生みの親である櫻井眞一郎氏だ。櫻井氏はBe-1の短期開発、少量生産のプロセスにおいて多大な尽力をされたという。これは筆者の親しい日産自動車の方の証言だから間違いないだろう。
ホンダシティの対抗馬を模索
ではなぜ日産はBe-1を誕生させたのかが気になるところ。それにはホンダシティの大躍進と関係がある。ホンダは”トールボーイ”のキャッチフレーズで1981年にシビックよりも小さいブランニューコンパクトカーのシティをデビューさせた。マッドマックスのCM、使い勝手のいいボディサイズ、頭上空間の余裕、小気味よい走りなどで一躍大ヒット。その後シティターボ、シティターボII(通称ブルドッグ)、カブリオレなどバリエーションを増やしていった。日産はそれに触発されて、初代マーチをベースとしたシティ対抗モデルを企画したというのがそもそもの発端。Be-1は派生車ではなく、新型マーチとして開発が進められていたという話もある。
社外デザインを採用
Be-1の開発プロジェクトが立ち上がったのは初代マーチが登場した2年後の1984年。日産の社内で「初代マーチのコンポーネント(シャシーやパワートレーン)を使って、今までにないオモシロいクルマを作ろう」という実験的なプロジェクトとしてスタート。
ブランニューのコンパクトで最優先されたのがデザインで、日産社内、日産車外から複数のデザイン案を募った結果、坂井直樹氏が提案した「ノスタルジック・モダン」をテーマとしたデザインが採用されることになった。
坂井氏はBe-1のみではなく、その後の日産のパイクカー戦略として成功を収めたパオ、エスカルゴ、フィガロにも関与。ネットなどを検索すると、坂井氏がラシーンにも関与したという情報もあるがその真偽は筆者にはわからない。
Be-1が人気になったのはデザインありき。坂井氏が提案した「ノスタルジック・モダン」は多くの日本人、特に女性の琴線を刺激。ただかわいいだけではなく、どこか郷愁を誘う懐かしさを感じさせる絶妙なデザインだった。BMW MINI、ニュービートル、マスタング、フィアット500などなど過去をオマージュしたデザインが人気で定番化。Be-1は過去のモデルをオマージュしていないが、レトロ的な雰囲気を纏ったデザインの先駆的モデルと言ってもいいと思う。






