【画像ギャラリー】勝鬨橋の半開状態を橋の上部から撮影した貴重な写真と資料の数々 #勝鬨橋#東京#隅田川 記事に戻る かちどき橋の資料館前の晴海通りに設置されている「かちときのわたし」の碑。1905年から1940年の勝鬨橋開通までの35年間にわたり、築地と月島の地を結んでいた「勝鬨の渡し」。渡船の年間利用者は一千万人もおり、当時の東京市が年額15万円を投じて無償運航していた=2024年4月4日、築地6丁目20番地先隅田川の月島側下流川面から築地側を見たところ。「ハ」の字に跳ね上がる跳開橋を支える左右2つの橋脚は、内部が空洞になっており、跳ね上がった橋の裾部分が収まる構造になっている。写真の左手(陸地)には築地場外市場が広がる=2017年10月24日(チャーター船より撮影)第一次計画案に添えられたパース画。月島は工業用地として埋め立てられたこともあり、明治期の計画段階から大型船舶の航行を意識した「跳開橋」として設計が行われた図中に”架橋位置”を示す「第一次計画位置」、「決定位置」の文字が見て取れる。この地図には「都電月島線(1923年開通)」が描かれていることや、現在の晴海通りにあたる震災復興道路(幹線第四号/当初は「歌舞伎通り」と呼んだ)も記載されていることから1925(大正14)年以降の既製地図に書き加えられたものと推測する。「決定位置」の築地側が道路と接続していないが、単純な記載ミスであろう工事費850万円(現在の貨幣価値で45億円規模)を見込んで計画された第三次計画案。河底隧道や自動車用エレベータを設置するなど、実現していたらと思うとワクワクするような橋だった橋と並行するように河底に隧道(トンネル)を設置し、跳開中の6分間でも「人と自動車の通行を妨げない」という大胆な発想で計画されていた現在架かる橋の基本設計図。この段階では、跳開橋を支える橋脚に設置された塔屋部分は3階建てとして描かれているが、実際には建設されていない。時局は日中戦争の最中であり、計画を変更したものと推測する。図面上の作図年が「昭和44年」となっているのは、おそらく過去の図面をトレースして再作図したためだろう橋脚の塔屋に設けられた運転室の内部=2024年4月4日、中央区橋脚部にある塔屋に設置された船舶用灯火信号器。この信号器は、行き来する大型船に対して、言わば通航許可を出していた=2024年4月4日勝鬨橋の半開状態を橋の上部から撮影した貴重な写真(上流側を望む)右上の大きな緑色に塗られた部分がカウンターウェイト。橋が跳ね上がる(開く)と、カウンターウェイトは左下のストッパーまで降りてくる。写真左手の壁の向こうが跳開橋に位置する。橋脚内見学ツアーの一コマより=2024年4月4日モーターの力で歯車を回転させて、跳開橋を開閉していた=2024年4月4日1947(昭和22)年から1968(昭和43)年2月までの間、都電11系統(新宿駅前~月島通八丁目)が橋上を行き来していた築地と月島通八丁目の間に「勝鬨橋」の文字が見て取れる=1950(昭和25)年の都電路線図より運転室から見た跳開橋=2024年4月4日橋の西詰(築地側)の袂にある「かちどき 橋の資料館」。入館料が無料なのはうれしい=2024年4月4日橋脚内部を見下ろす。この内部の床は、隅田川の水面よりも低い位置にある=2024年4月4日「橋脚内見学ツアー」では、跳開橋の動く仕組みを実物を見ながらイラストを使って丁寧に説明してくれる=2024年4月4日橋脚内部にあった当時の職員が使用していたトイレ。今では考えられないが、この汚水はそのまま隅田川へと流れ出る“水洗トイレ”だった=2024年4月4日橋の西詰(築地側の袂)に設置されている「日本国重要文化財」の銘板。当時の石原慎太郎東京都知事の揮毫が目を引く=2024年4月4日 記事に戻る 「東洋一の可動橋」と呼ばれた勝鬨橋 その名前の由来とは?