バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第118回は、「電話について」。
机上に三台もの電話機が並ぶ理由とは?
電話が嫌いだ。
何もかつてNTTの株で大損をこいた怨(うら)みをこめて言うわけではないが、ともかく電話が大嫌いなのである。
理由はある。ものすごく時勢に対して反動的な理由であるから、読者はきっと大笑いするであろうが、あえて言う。
卑怯な感じがするのである。
電話で話をするたびに、何でこのヤロウは人の顔も見ずにこんな大事なことを言うのだ、と憤る。また、自分でも大事な用件を電話で済ませるとき、俺は礼儀知らずの卑怯者だと思う。
だから私の電話の声は、たいてい不機嫌に聴こえるらしい。現に、今まで怒りにかられて破壊してしまった電話機の数は計り知れない。
反動的理由のほかに、トラウマというやつもある。
私のように悪い人生を送ってくると、恋人からのラブ・コールとか、吉報とかいう記憶はほとんどなく、電話といえばまず借金の追い込みとか、舎弟の訃報(ふほう)とか、「これから行くで!」「おうっ!くるならこいや!」、てなやりとりとか、脅迫電話とか、無言電話とか、まあその他いろいろ、マイナス・イメージばかりが胸に刻みこまれている。さらに最近では、原稿の催促という現実的な恐怖にもさいなまれている。
かくて私は昔も今も、電話が鳴れば必ず反射的にドキリとする。
そのくらい電話が嫌いなのである。
ところで、この原稿を書いている私の机上には、どうしたわけか3台の電話機が並んでいる。
プライベートなホームテレホン、仕事用、そして携帯電話である。
まったく不本意ではあるが、なりゆき上こうなってしまった。
『蒼穹の昴』がたいそう売れてしまい、税務対策上やむなくバブリーな新居を購入した。長いこと畑の中の古家に生活しておったので、何だか怖い感じもし、気はずかしくもあったのであるが、ともかく引越した。
自慢をする気はないけれど、この新居は床面積が220平米もある。
長い極道的人生の結果、「デカいものはよい」「ハデこそ美徳」と考えており、一見して風呂屋のごとき家になっちまったのであった。
このサイズは当然1台の電話機では用が足らんのである。かくて壮大なホームテレホン網を家中に張りめぐらさねばならなくなった。机上にある1台は、いまだに使用方法が解明できぬ複雑怪奇な代物である。
次なる1台は「仕事用」の別回線で、私はそんなものいらねえと主張したのであるが、天皇賞で惨敗して家に帰ってみると、ホームテレホンに並べて置いてあった。要するに原稿の催促にうんざりとした家族が、「自分のことは自分でしなさい」という意をこめて私の書斎に設置したのである。
携帯電話については、かつて本稿でも書いたと思うが、私はかねがね呪詛(じゅそ)していた。あんなものは人間を横着にするばかりだと、会う人ごとに力説していたのである。
しかし、ある日商店街で「携帯電話機無料キャンペーン」なるものをやっており、私は据え膳は必ず食っちまうタチなので、これを手に入れた。
実は、基本料金がタダではないということを知らなかったのである。だとすると使わねば損と考えてしまい、たちまちNTTの目論見(もくろみ)にズッポリとハマった「横着者」と化してしまった。
使ってみると、けっこう便利なのである。ご機嫌ナナメのときはスイッチを切っていればよい。
この点はむしろ、電話嫌いのための電話機、ということができよう。ことに取材放浪中とか競馬場のスタンドとか、クソ忙しい編集者たちとの待ち合わせの折などには、驚異的な効力を発揮する。
というわけで、机上には3台の電話機が並ぶこととなった。