『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、真田信之と松代(まつしろ)城(長野市)です。
桶狭間の戦いの年に築城
真田昌幸の嫡男・信之が城主として治めたのが、松代城です。松代城は、永禄3(1560)年、武田信玄が北信濃支配のために作った海津城がもとになっています。軍師だった山本勘助の築城とされます。
三方を山に囲まれ、西に千曲川が流れるという自然の地形を利用したもので、半円形の土塁の外側に掘られた三日月堀を持ち、甲州流築城の模範になりました。1560年といえば、織田信長が今川義元を奇襲し破った桶狭間の戦いが行われた年です。
川中島の戦いで最大の激戦
川中島の戦いは天文22(1553)年から永禄7(1564)年まで5度にわたって上杉謙信と武田信玄がぶつかった戦いですが、海津城は永禄4(1561)年に行われた第四次合戦(八幡原の戦い)の重要な舞台になります。
この第四次合戦は川中島の戦いのなかでは最大の激戦となり、軍師山本勘助が考案した「キツツキ戦法」が謙信方に見破られ、信玄の弟の信繁や勘助本人が討ち死にするなど、武田側は大打撃を受けます。真偽のほどはともかく、謙信が信玄の本陣に単騎切り込んだとされるのも、この時です。松代城から川中島の古戦場は遠くありませんから、ぜひ立ち寄ってみてください。
信玄亡きあと城主が変遷、海津城が松代城に
さて、信玄亡きあと、海津城は織田信長の家臣・森蘭丸の兄、森長可(もりながよし)や、豊臣秀吉の有力な家臣・蒲生氏郷の姉婿、田丸直昌などが城主になります。
関ヶ原の合戦の後、家康の六男忠輝(ただてる)が入り、その後、真田信之(昌幸の長男で信繁[幸村]の兄)が上田から移封、松代藩の地を与えられ、元和8(1622)年に入城しました。信之は上田が真田家代々の地であったことから、松代へ行くことを悔しがりますが、結局それから明治維新まで、松代藩10万石の藩庁として続きます。後に3代藩主、幸道の時に、松代城と名を改められます。