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父昌幸とは違い勇猛な性格、裏表のない誠実な人柄

信之自身は昌幸譲りの勇猛さを持っていましたが、手練手管の父とは違い、裏表のない誠実な人柄だったと伝えられます。

父昌幸と、弟信繁(幸村)は上田城での籠城によって徳川秀忠軍を関ヶ原の合戦に遅参させるなど徳川軍に打撃を与え、関ヶ原の合戦では石田方の西軍につきます。天下人家康に盾ついたのですから、いったんは切腹と決まります。

しかし、信之は自身の戦功と引き替えに両名の命を助けるべく嘆願し、結局父子は罪一等を減じられます。秀忠遅参事件での家康、昌幸の水面下の動きを勘ぐるムキもありますが、何はともあれ、この父子は死刑にはならず、紀伊の九度山に流罪となります。

その九度山に、家康の目を気にしながら援助の手をさしのべ続け、父の死の際は、幕府に葬儀を願い出るなどしています。また、昌幸に従って九度山に赴いた家臣が帰ってきた時は、温かく迎え入れたとの記録が残り、徳のある人物だったことがうかがえます。

松代城 Photo by Adobe Stock

身長185cmの長身

信之の特長としては、身長6尺1寸(約185cm)という長身と、93歳という当時としては考えられないような長寿を全うしたことでしょう。戦国の比較的初期に生を受けながら、万治元(1658)年まで生きたのです。

前田利家が182cm、藤堂高虎が190cmというように、ほかにも大男はいましたが、90歳以上という長寿を全うした武将は、松平忠輝の92歳くらいのものでしょう。ちなみに長寿で知られる北条早雲でも88歳です。

8代藩主は佐久間象山を登用し、藩の近代化を図る

松代藩は後に、信之の血筋自体はなくなりますが、養子を迎えることで10代・幸民まで続き、明治を迎えます。この間6代藩主・幸弘に仕えた恩田木工(おんだ もく)は、財政再建を成功させた名家老として知られます。また、8代藩主・幸貫は老中松平定信の次男。真田家に養子として迎えられ、自身も老中になったほか、勝海舟や坂本龍馬の師として知られる蘭学者・佐久間象山を用い、藩の近代化を図りました。このように、松代藩はなかなかの人材を輩出しています。

松代城の石垣 Photo by Adobe Stock
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明治になって廃城、天守台は残った...
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