中央アジアのキルギスで、バツイチ三兄弟とその家族10人が暮らす民家に泊まることになった私だが、一家の悩みと愚痴を難解なロシア語で聞くことに。キルギス女子に「男を見る目がない」と見抜かれた中編に続き、後編もお楽しみください…
画像ギャラリー中央アジアのキルギスで、バツイチ三兄弟とその家族10人が暮らす民家に泊まることになった私だが、一家の悩みと愚痴を難解なロシア語で聞くことに。キルギス女子に「男を見る目がない」と見抜かれた中編に続き、後編もお楽しみください。
サブルおじさんは帰ってこなかった
翌朝、唯一、この家で英語が話せるサブルおじさんは恋人の家に行ったまま帰ってこなかった。私は台所にいたラトミラさんに「私の紅茶は砂糖を1杯にしてください」と身振り手振りを使って伝えたが全く通じず、昨夜と同じド甘な紅茶が運ばれてきた。サブルが通訳してくれないとあっという間に体型が変わりそうだが、恋人が帰してくれないのだろうか。
そのかわり、サブルの20代の息子ふたり(どちらも無職)が今日は市場に買い出しに行くので、ついでにアヅサも連れて行けと父から伝言があったという。息子たちに日本人の世話を押し付けて父は恋人の家とは! 彼らは全く英語ができなかったが、親切にも生きた動物が売り買いされるバザールなどを案内してくれたり、お菓子売り場にも連れて行ってくれた。
2日目の夜も、帰宅したふたりのグルナラが私を部屋に呼びに来た。私は市場で買ったピーナッツとクッキー、そして辞書を持って彼女たちの部屋へと行った。すると、ナラは「今夜もサブルおじさんがいないから。ヒヒヒ」と含み笑いして、ベッドと壁の隙間から何やら瓶を取り出した。それはブランデーであった。キルギスで飲酒は禁止されているわけではないが、若い女性が飲むのははしたないとされているので、サブルに見つかるとうるさいのだという。
キルギス産のブランデーは、香りがよく思ったより甘いが飲みやすい。今夜のガールズトークのお題ははふたりの恋人の自慢と悩みであった。グルとナラはそれぞれアルバムを持ってきて私に見せた。グルの彼氏は壁に貼ったシュッとしたアイドルとは違って、ずんぐりむっくりした体型に眉毛が濃く、素朴な青年であったが、私は言いやすい「ハラショー!」を連発した。
グルは「へへへ」と、うれしそうにしたが、しかし何かを思い出したかのように「ストラーシュノ!」と言って眉間にシワを寄せた。私はグルに辞書を渡すと、ペラペラとめくって「ひどい」の文字をトントンと指さした。
どうやら最近、年下の女と鼻を伸ばして会話しているのを見たらしい。「ムッキー! あんなバカ女と! 許せないわ!」とばかりに鼻息荒く酒を一気に飲んだので、ナラがまたベッドの下から酒瓶を出してグルの空いたグラスに注ぎ、私はピーナッツの袋を破いた。グルは口にピーナッツを放り込み、バリバリと音を立てて噛んだ。
一方のナラは年上の彼氏ともう3年も付き合っているのだという。「結婚しないの?」と左手の薬指を叩いてジェスチャーすると、また辞書をペラペラとめくり、「低い/収入」を指さした。キルギスではお金がないと結婚は難しいのだろうか。後でサブルおじさんが教えてくれたのだが、この国では結納金がとても高いらしい。
そのため、お金を用意できず駆け落ちする恋人たちも多いという。恐ろしいことに、「誘拐婚」といって、年ごろの女性をさらってしまう習慣がキルギスには残っているそうだ。都会では少ないというが、若い女性だけの暮らしは危険なのでグルとナラはこの家に居候し、帰りも待ち合わせて帰っているのだという。
ネガティブなロシア語なら
3日目の朝、ラトミラさんが洗濯を干している時、無職組の長男のアルとアスカルとご飯を食べることになった。働いているグルナラたちはとっくに出勤している。例の甘い紅茶をすすり、コッペパンにバターを塗っていると、ふたりのおじさんは私がほとんどロシア語が理解できないというのに、構わず話しかけてきた。
ところが、驚いたことに2日間のグルナラたちとのガールズトークで鍛えられた私は、アルの「俺がアル中だからって、サブルが家中の酒を隠してしまった」という憤慨も、アスカルの「電話番の小屋を建てたいが金がない」という嘆きも、ざっくりと聞き取れたのだ。
というのも、昨夜、女子会でノートに書きとめた単語は、「酒」「隠す」「ひどい」「収入」「低い」である。そのフレーズ、わかる、わかるよ! もちろんジェスチャーが頼りではあるが、私が目をキラキラさせて相槌を打つので、おじさんたちは喜んだ。
その日の夜、私は昨日のブランデーのお礼にキオスクで買ったビールを家族に見つからないように、紙袋に入れてグルナラたちの部屋に持ち込んだ。すると、グルがベッドの下をのぞき込み、何やら箱を取り出した。開けてみると、タバコとライターが入っている。
「もうさー、サブルおじさん、家の中で吸わせてくれないの!」
「やんなっちゃう。自分は吸うくせに何で女が吸うとダメなの~」
慣れた様子で、ふたりはスパスパと吸い出した。と、その時、こちらの部屋に近づいてくる足音が! ゴロンと横になっていたふたりは、「やばい! サブルが帰ってきたかも!」と、あわててタバコを消し窓を開けた。冬のキルギスの夜は氷点下であった。一気に部屋に寒い空気が流れ込んで、私は「へっくしょん!」と、くしゃみをしたが、それには構わずグルとナラはクッションや洋服でパタパタとタバコの煙を追い出した。
ノックの音と同時に窓を閉め、ビール瓶を隠し何事もなかったような顔をして、ナラが部屋のドアを開けたが、そこに立っていたのはアルの愛人のラトミラさんとアルの最初の妻の娘のオルガであった。グルとナラたちは「なんだあ~!」と笑ってひっくり返った。ラトミラさんたちは、毎晩、楽しそうな声がふたりの部屋から聞こえるから、女子会に混ぜてほしかったのだという。
その夜はアルが無職なので夫婦になれないというラトミラさんの嘆きや、オルガの元ダンナがどんなに甲斐性がないかという話で盛り上がった。皆が早口でしかも時々、キルギス語も交えて話すので、私には10分の1もわからなかった。
しかし、「最低~!」「男ってダメだよね~」「どこにいい男がいるの?」「もう別れようかな」「でも好き!」「いい加減なの!」という、この3日間、耳にタコができるくらい彼女たちの口から繰り返されたワードがでるたびに、「ウージャス!(それはひどい!)」、「ニチボー・セベー(なんてこった!)」と相槌程度に私もガールズトークに参加することができた。
朝も夜も誰かの愚痴に付き合っているうち、この家の人たちはだんだん明るい顔になっていった。サブル一家にしてみれば、後腐れもない旅人に煮詰まった不満をただただ吐き出すことで、一種のカンフル剤になっていたのかもしれない。
帰って来なくてありがとう
「もう少しいたら」と家族に引き留められてウズベキスタンへの移動を数日、伸ばしていたが、ついにビザが切れそうになって、いよいよお別れする朝がやってきた。ラトミラさんが昼食のパンを持たせてくれ、ギューッと抱きしめてくれた。
無職なのにアルとアスカルからもオレンジ、ふたりのグルナラも私が初日に適当に好きだと言った郷ひろみ似の切り抜きと、痩せクリームを餞別にくれた(旅の間、腹に塗り続けるも全く痩せなかった)。そして、「今度は私たちの故郷に連れていくから夏もまた来てよ」と涙ぐんだ。
ずっと帰って来なかったサブルが戻って来て、バスターミナルまで送っていくという。そして「ごめん~。俺がいないから英語が通じなくて苦労しただろう?」と形ばかり謝るのだが、いいの、帰ってこなくてありがとう。おかげでロシア語が上達して、毎晩、心おきなく飲んだくれることができたからだ。
当時の日記を読み返せば、キルギスの観光地もひとりで昼間に行っているのだが、ほとんど思い出せない。20年経った今、頭に浮かんでくるのはこの家の人々の顔だけだ。有名人でもなく特別にカッコよくもない。皆が皆、人生がうまくいっておらず不満ばかり。それでも折り合いをつけて生きていた。そんな彼らとの暮らしは妙に居心地がよかった。あれから一度もキルギスを訪ねていない。彼らはそれぞれ好きな人と幸せに暮らしているのだろうか。
文/白石あづさ
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