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ダート馬世界一決定戦への挑戦

ところで、さきにも述べたが、日本の競馬には芝のレースとダートのレースがある。これは気候風土の関係で、冬場は芝生を保護しなければならないからだと言われる。つまり、ダートのレースは芝のレースの代用品という意識が、昔からあった。だから、ダービーもオークスも、天皇賞も有馬記念も、ビッグレースはすべて芝コースを使うのだ。

これでは君のようなダート血統の馬は割を食う。自分の最も得意とするセクションが、会社の主流から外れているようなもので、どんなに活躍したところで名誉も与えられなければ出世もしない、というわけだ。

今年、つまり君が8歳を迎えた年から、ダートにもG1が誕生した。2月に中山の1600ダートで行われた、フェブラリーステークスである。もしかしたらこれは、JRAが君のために用意したレースだったのかもしれない。

だが君は、このJRAの粋なはからいを袖にした。出走していたらたぶん、いやまちがいなく勝っていただろう。

砂の上を走る限り、もはや日本に敵はいないと思ったのか、あるいはお手盛りのレースに勝っても仕方がないと思ったのか、君は敢然と海外のビッグ・レースに挑んだ。

アラブ首長国連邦ドバイの、ナドアルシバ競馬場で行われる、ドバイワールドカップ。世界最高の賞金金額は400万ドル。世界中の砂の王者たちが、ダート2000メートルに覇を競う。手綱を握るのは関東の人気ジョッキー「ノリヒロ」こと横山典弘騎手である。

ひいき目ではなく私は、君が勝つと思った。砂の舞台で君が他の馬に負ける姿など思いもつかなかったからだ。たしかにエントリー・メンバーは、アメリカ、イギリス、フランス、アラブ首長国連邦、オーストラリアといった、競馬先進国からえりすぐられた名馬ばかりで、しかも君ひとりが女だった。それでも私は、君が勝つと信じた。

あのスピードシンボリも、シンボリルドルフも果たし得なかった国際G1レース制覇の快挙を君がなしとげ、8歳まで走り続けた最後にして最高の栄冠を携えて、ふるさとの牧場に帰るのだ。それこそが砂の女王にふさわしい引けぎわだと私は思った。

最終コーナーの悲劇

中山競馬場のテレビモニターにかじりついて、私は君の晴れ姿を見た。輝かしい光に彩られた夜のナドアルシバの砂の上を、君は名手ノリヒロを背に、緑色のマスクと赤いゼッケンをつけて、さっそうと歩いた。

いい女になったなと、私は思った。

4年前、中山の正月のパドックで見た、若き日の君の姿が瞼(まぶた)に甦(よみがえ)った。あの日、目を奪うほど美しかった君は、苦労の分だけ、努力の分だけ、もっときれいになっていた。

激しいレースだった。世界最強の12頭のサラブレッドは、始祖の土地アラブの深い砂を巻き上げて、終始一団のまま走った。

そして最終コーナーを馬群が激しく競り合いながら回ったとき、君は倒れた。気丈にも立ち上がろうとする君の上に、後続の馬の蹄鉄が迫った。

左前脚が、棒きれのように折れてしまった。起き上がろうとする君を立たせまいとノリヒロは砂の上をはって、君のクビを抱いた。

瓶色の照明の下で、そのとき君はアラブの夜空に何を見たのだろう。予後不良の診断がなされ、砂にまみれた鹿毛の肌に毒薬の針を打ち込まれるとき、君は何を考えていたのだろう。

負けたのではない、と思ってくれただろうか。

ダート馬の宿命を背負い、並いる男たちに伍して、君は4年の歳月を戦い続けた。そして不滅の10連勝をとげた。君は誰にも負けなかった。砂の女王と呼ぶよりも、君にこそ「優駿」の名がふさわしい。

君の体は乙女のまま、アラブの砂にかえった。

ホクトベガ。父ナグルスキー、母タケノファルコン、母の父フィリップオブスペイン。牝8歳・鹿毛。全成績42戦16勝。ダート成績15戦12勝——。

君はその名の通り、輝ける北斗の星となった。

(初出/1997年4月26日号)

浅田次郎さんの競馬本

浅田次郎さんには、『勝負の極意』『競馬どんぶり』(幻冬社アウトロー文庫)、『サイマー!』(集英社文庫)など、競馬を題材にしたエッセイ集もあります。10代の頃から馬券を買い続け、本が執筆された2000年前後で既に30年の競馬歴があった浅田さんが語っているので、どれも面白いのですが、これを読めば、儲かるようになるわけではありません。

競馬の醍醐味と魅力が豊饒な言葉で語られ、そして、いかに身を持ち崩さずに、人生最大のゲーム・競馬を楽しみ続けるかということに関して、最高の指南書になっています。

これから競馬を始めようかと思っている方には特にオススメです。

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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