1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第8回は、明日、5月29日に開催される競馬のG1レース「東京優駿(日本ダービー)」にちなんで、浅田さんがある競走馬への熱い思いを語った回をお送りします。
「優駿について」
「意中の人」との運命の出会い
君と初めて出会った日のことを、私は今もはっきりと覚えている。
宿命的な出会いの瞬間というものは、人間同士の間ではふしぎと記憶に刻みつけられているものだが、人と馬との間でも、それは同じであるらしい。
4年前の平成5年1月5日、第1回中山競馬第1レースのパドック。つまり、その年に行われる一番最初のレースだった。
フルゲート16頭の新馬の中で、君はひときわ輝いていた。体はまだ未完成で、高校生のようにころりとしていたが、君はとても美しかった。
私は新年の祝儀のつもりで、君の単勝馬券を少しだけ買い、君は1200メートルのダートを期待に応えて一気に逃げ切った。
父ナグルスキー、母タケノファルコンという血統は必ずしも名血とは言い難い。日本の競馬には芝コースを使うレースと、ダートすなわち砂コースを使うレースがあるが、君の体に流れる血は明らかに地味なダート・ホースのものだった。
それでも君は、ダートの新馬戦と特別戦を勝ったあと、芝の重賞レース、フラワーカップも制して、4歳クラシックに轡(くつわ)を並べた。
桜花賞が5着、オークスが6着。だが、ともに勝ち馬とは1秒以内の着差だったのだから、ダート血統の君にしては善戦といえるだろう。
しかし君は、4歳牝馬クラシックの掉尾を飾る秋のエリザベス女王杯を、後方一気に差し切った。芝の適性と距離の適性を疑われていた君は9番人気の穴馬だった。
京都競馬場の直線で、君が名牝ノースフライトを並ぶ間のなくかわしたとき、私はスタンドから、誰よりも大きな声で叫んでいた。
「ホクトベガだ! ホクトベガが来た!」
馬券は取れなかったのに、どうしてあれほど興奮したのだろう。たぶん君は、そのときの私の心にどうしてもあきらめきれずにいた「意中の人」だったのだ。
「砂の女王」の飛躍
5歳になって、君は札幌で2勝を挙げたが、その後しばらく勝利から見放されていた。だが、それにしても良く走ってくれた。いま君の戦績を調べて、君がデビュー以来ほとんど絶え間なく月に1度のレースを消化していることに愕(おどろ)いた。まるで土日を返上して働き詰めに働くOLのようだ。そしてなお偉いことには、君はいつも男たちと一緒に働いていた。
たしか6歳の秋だったと思うが、君はいよいよ平場のレースに見切りをつけて、障害レースに転向すると宣言した。飛越の練習も初めていたそうだ。
それもあまりうまくいかなかったのかどうか、一転して引退の噂が飛んだ。その間も大レースで善戦を続けていたのだが、オープン馬としてはそれくらいが限界なので、繁殖に上げようということになったらしい。
ところが、そんな話が行き交う中で、中央競馬と公営競馬の交流レースが開催される運びとなった。君とってはまったく久しぶりのダート戦だ。
川崎競馬場の砂の上に立ったとき、君はいったいどんな気持ちがしたのだろう。
一気呵成に逃げ切った、中山のデビュー戦を思い出したのだろうか。父ナグルスキーのダートの血がふつふつとたぎるのを、得体のしれぬ快感として蹄(ひづめ)の裏に感じ取ったのかもしれない。
そして君は、ドロドロの不良馬場で行われたエンブレス杯を、信じ難いスピードで逃げ切った。2着馬との着差18馬身。タイムにして3.6秒。君がゴール板を駆け抜けたとき、2着以下の馬はどこにも見えなかった。
やはり君のたくましい筋肉は、深い砂を掻いて走るダート馬のそれだった。
その後、君はダードの重賞レースを10回走り、10回勝った。空前絶後の大記録だ。
こうして君は、「砂の女王」と呼ばれるようになった。