1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第19回。アメリカで頻発する銃乱射事件、そして、自作された銃による安倍晋三元総理射殺事件、2022年は銃という禍々しい道具が存在感を増している。1994年10月、品川区の青物横丁駅で拳銃による医師殺害事件が起こったとき、陸上自衛隊の歩兵であった作家は何を思ったのか。
画像ギャラリー「拳銃について」
戦場では役に立たないが、街中ではものすごく迷惑
当節流行のハードボイルドなる小説のジャンルは、いったい何を以てその定義とするのであろう。
正確かつてっとり早く言うなら、「拳銃の小説化ロマネスク」である。
登場人物はべつに過去のある老刑事でなくともよい。復讐を胸に秘めたヒットロマンでなくともよい。場末の酒場もバーボンも、どこか翳(かげ)りのある無口な女も、なくてはならぬというわけではない。
ただし拳銃が主人公の懐に収まっていなければ、話は始まらない。単純な思想、一途な目的、鋼(はがね)の量感、寡黙さ──ハードボイルドは「拳銃の小説化」なのである。
こうしてひとつの小説のジャンルになりうるぐらい、拳銃は古今東西を問わず男のロマンであった。そしてまさに社会問題となりつつある現状も、実はこのマニアックなあこがれの延長上にある、と私は思う。
かつて自衛隊在職中には、当然のことながら天下御免でこれをブッ放していた。まあ退職後もまんざら縁がなかったわけではないから、そこいらのコメンテイターよりは発言の資格があると思う。ただし根っから私小説は嫌いなので、今後ともハードボイルドは書かない。
そこで、先日、善良な市民の心胆を寒からしめた、青物横丁駅での医師射殺事件について私見を述べようか。
精神病歴を持つ男が、医師の正当な手術について被害妄想となり、行きずりのヤクザ者から拳銃を購入して凶行に至った、とマスコミは伝える。
果たして真実はそうだったのだろうか。どうも不自然さを感じる。被害妄想に陥るほど虚弱で神経質な性格と、進んで拳銃を購入する大胆さとの間に、ひどく矛盾を感じるのである。
こういう推測はどうだろう。男は被害妄想を抱く以前に、すでに何らかの形で拳銃を入手しており、夜な夜なその量感に酔いしれるうち、何者かに復讐すべきだという妄想を抱くようになった。つまり殺す相手は誰でも良かったのだが、殺すだけの理由を思い当る人間はおらず、たまたま持病のヘルニアは手術の後も痛み続けていた──。
拳銃を弄(もてあそ)んでみたり、他人に見せびらかして悦に入る人間は、えてして、というか、おしなべて虚弱なタイプである。そして拳銃の魔力とは、持てば持ったで撃ちたくなる、撃てば撃ったで「いっぺんでいいから」人に向けたくなる。この衝動はたとえば食欲や性欲と同じぐらい強い。拳銃を手にしたときの気持は、豪勢な料理を目の前にしたときとか、裸体の美女に手を触れてしまったときと、ほとんどちがいがない。
小説家の推理というより、体験上の憶測としてそう思うのだが、どうだろう。
彼自身のソフトウェアはともかく、事件のハードウェアについて語ろう。
そもそも拳銃というものは「補助兵器」であって、戦場ではほとんど役に立たないものだと自衛隊では教わった。これは確かである。
なぜかというと、小銃ライフルがほぼ300メートルの有効射程を持つのに対し、拳銃は10メートル先の標的でも容易には当たらない。したがって司令部内の将校とか、任務上かさばるライフルを携行できない砲手や通信手などが、主として護身用にこれを装備する。司令部のテントや砲座を急襲された場合、いわゆる彼我いり乱れた白兵戦のときのみ有効な武器というわけで、拳銃の兵器としてのコンセプトは実はそういうものなのである。
ということは、町なかでこれをブッ放すという行為は、殺意のどうこうに拘らずものすごく迷惑、かつ危険きわまりない。しかも、なめらかなタイル壁やコンクリート床の上では弾丸は不規則に跳ね回る(自衛隊ではこの迷走弾のことを「跳弾」といってたいへん警戒する)。おとついの方向の野次馬に当たっても、一発が三人を殺傷しても少しもふしぎはないのである。
ともあれこれからは、パンと音がしたらとっさに地べたにはいつくばって頭を抱えるという心構えは必要であろう。ニューヨークでは道ばたのバケツを蹴とばしたって五、六人はサッとしゃがみ込む(という話を聞いたのでためしにやってみた。本当であった)。
ちなみに、拳銃の発射音はドラマの効果につかわれる「バッキューン!」とはほど遠い。「パン」という短い破裂音である。
商品として流通し始めた拳銃
ところで、ひと昔前の裏町に存在した拳銃といえば大方がモデルガンの改造品であった。ごくたまに「コルト・ガバメント」とか、それをちょっと小型化した通称「コマンダー」と呼ばれるものを見かけた。しかしトカレフなどという銃は見たことも聞いたこともなかった。ニュース映像で見た限り、ピカピカの銀色で妙にごつい、不恰好なデザインである。グリップも単純な縦溝が切ってあるだけで、ひどくぞんざいな感じがする。
コルトやブローニングは全体的に垢抜けた面取りが施してあり、色もみな黒いつや消しで、木製のグリップには細密なうろこ状の滑り止めが刻んであったと記憶する。さらに細かい部分について言うと、コルト系には手動式の安全装置のほかにグリップの背面にしかけがあり、しっかり握らないと撃鉄が落ちないようになっていた。見たところトカレフにはそういう機能もなさそうである。
要するに性能はどうか知らんが、件(くだん)のトカレフはたいへん野卑な量産型の拳銃、という感じを私は受けた。
こうした点から想像するに、旧ソ連があんなことになったから余ったトカレフが流失したとする説は、誤りであろう。なぜなら、銃身の面取りもしていない角ばった拳銃は、実際には非常に扱いにくく、とうてい軍用銃とは思えないからである。すなわち今日問題になっているトカレフは、旧ソ連軍の制式トカレフとは明らかに同名異物であろうと思う。
軍の制式拳銃の代表といえば、米軍のコルト・ガバメントとドイツ軍のワルサーP38であろう。前者は第一次大戦以来、後者はナチス・ドイツ以来、今日もなお両軍の制式拳銃とされている。つまり、武器としての拳銃はこれらの名銃をもって、とうの昔に完成しているのである。
件の銀ピカトカレフをワルサーやコルトと比較した場合、一見してそれが制式トカレフでないことはわかる。おそらくトカレフの名を借りた「市販用コピーモデル」、いやもしかしたら「対日輸出用トカレフ」として、どこかでひそかに量産されたものではなかろうか。少くとも「ある物を売っている」のではなく、「売れる物を作っている」ことは確かであろう。
警察やマスコミが、こうした拳銃の商品性について考えないのはなぜだろうか。冒頭でも触れたように、マニアックな意味で拳銃を欲しがる男はいくらでもいる。しかも万がいちパクられたときにも、平和国家のお粗末な銃刀法により、罪は愕(おどろ)くほど軽い。つまり重い懲役をかけて覚醒剤を売るよりも、拳銃を売った方がずっとワリに合うのである。
かくて実数十万丁といわれる拳銃が巷(ちまた)に氾濫(はんらん)した。実用性があるから売れたのではない。マニアックな商品性によって売れたのである。制式トカレフではない量産品が、トカレフのブランドで売られ、大ヒットした原因ももちろんこれであろう。
私がいま最も不安に感じる点は、こうして一般市民の間にまでばらまかれた拳銃が、既成の覚醒剤ルートやコカインルートを伝わっていないか、ということだ。銃も薬も同じ営利目的の商品であると考えたとき、この販路は大いにありうる。だとすると、精神病歴のある男が青物横丁駅で待ち伏せた程度ではなく、薬害により完全にプッツンした男が新宿駅のラッシュ時に拳銃を乱射するような事件が、いつ起きてもふしぎではないことになる。
書いているうちに何だか妙な使命感を感じてしまった。
では来週も凶弾にまつわる話の続きをしよう。
発売と同時に売り切れるかも知れないので、お早目に。
(初出/週刊現代1994年11月26日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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