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1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第18回。今から77年前の8月6日、広島に暮らしていた、あるいはたまたま滞在していた人々の運命は大きく変わった。その中の1人である貴賓を襲った運命はあまりにも理不尽だった。

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「理不尽について」

朝鮮王族に出自をもつ海軍士官

殿下は馬がお好きだった。

だから毎朝、広島市の郊外にある仮御殿を騎馬でお出ましになり、市内を南から北に縦断するようにして、山陽本線の駅近くにある軍司令部に通われた。

その朝も同じだった。忠実なお付武官のY中佐が、今日はたいそう日ざしが強いのでお車をお使い下さい、と勧めるのを笑って退けられ、おまえは一足先に車で行け、とおっしゃられた。

Y中佐はそうした殿下を、深く尊敬していた。うだるような暑さと不利な戦況の中で、日本の軍人たちはみなうんざりしているというのに、朝鮮王族である殿下はいつも馬上に凜と軍服の背を伸ばして、軍司令部との長い道のりを往還なされる。しかもお付のY中佐にはご自分の乗用車を使用させるのである。Y中佐が長靴(ちょうか)も履けぬほどのひどい水虫に苦しんでいることを、殿下はご存じだった。

ではお先に、と車で御殿を出るとき、Y中佐は遠ざかる殿下に敬礼しながら、いつも胸がいっぱいになるのだった。殿下はY中佐が車窓から体を引っこめるまで、馬上の答礼の手をおろそうとはなさらなかった。おそらく、それが士官学校の先輩に対する当然の礼儀であると、殿下はお考えになっているのだろう。

口にこそ出さないが、Y中佐は理不尽を感じている。明治43(1910)年の日韓併合によって、朝鮮の李王家は日本の皇族として礼遇されることになった。それから40年ちかくの歳月が経つから、お若い殿下は日本の皇族としてお生れになり、学習院と士官学校に学ばれ、帝国軍人としての人生をお過ごしになっている。

歴史の必然と言ってしまえばそれまでだが、はたして当の殿下は、自分の感じているような理不尽をお感じにはなられないのであろうか、と中佐は思う。

理不尽とは、道理を尽くさないで無理無体に押しつけることである。ならばこれ以上の理不尽はなかろう、と中佐はひそかに考えている。

殿下の任務は、来たるべき本土決戦に備えて西日本の防衛を担当する、第二総軍の教育参謀である。

沖縄を陥とした米軍が、遠からず九州に上陸してくるであろうことはほぼまちがいないから、最高指揮所の参謀として、殿下の任務は極めて重大である。それぐらい殿下は、有能な軍人でもあらせられる。

理不尽だと、Y中佐は再び思う。大東亜戦争は日本が世界を相手にした戦(いくさ)である。しかし殿下が世界を敵に回す理由は、何ひとつないと思う。自分は何度死んでも良い。だが殿下をこの戦で殺してはならないと、Y中佐は心に誓っていた。

爆心地から数百メートル地点を通過中に

Y中佐が一足先に軍司令部に到着したころ、殿下の馬は2人の護衛憲兵を従えて、ちょうど市の中央部にあたる福屋デパートの前を通過していた。

赫(かがや)かしい夏空に爆音が聴こえた。殿下は略帽に手庇(てびさし)をかかげて天を仰がれた。警報は発令されておらず、広島はそれまでにもほとんど空襲を受けてはいなかった。単機のB29は偵察飛行にちがいない。

再び馬を歩ませたとたん、殿下はすさまじい光に捉われた。背中に熱鉄が巻きついたような気がし、馬もろともに車道の中ほどまではじき飛ばされた。

真黒な煙の中で、殿下は気丈にも焼けただれた背を起こした。そのとき殿下は、わずか数百メートル先の爆心から、天に向かって魔王のように立ち上がる巨大な柱を、確かにご覧になった。

軍服は破れくすぶり、参謀懸章は炎を上げて燃えていた。それでも殿下は、軍刀を抜き、長靴を曳いて、目前にそそり立つ理不尽の柱に向かって歩いた。

爆心地から離れた軍司令部でも、400余名の出勤者のうち100名が即死した。瓦礫(がれき)の中からはい出したY中佐は、大声で泣きながら殿下の姿を求めて市内を走り回った。

軍司令官や参謀長の消息も、家族のことも、爆死を免れた軍人としてやらねばならぬことも、何も思いうかばなかった。ただ、あの人だけは殺してはならないと、そればかりを考えていた。

殿下は相生橋の橋脚の下に蹲(うずくま)っておられた。煮えたぎる川面をじっと見つめながら、殿下はそのとき何を考えていらしたのだろう。生きてはおられたが、お体は真黒に焼けていた。

宇品(うじな)の船舶司令部の舟艇が、蹲る殿下と、そのかたわらでなすすべもなく号泣する侍従武官とを発見した。舟はただちに二人を収容し、似島(にのしま)の海軍病院に向かった。

背中一面に火傷を負われていた殿下は、ベッドにうつ伏せて手当てを受けた。痛みも苦しみも訴えようとはなされず、徹夜で看護をするY中佐に、大丈夫だから休めと仰せられた。自分の傷は浅いから、と中佐が言うと、殿下は声に出されずに、黙って足元を指さされた。

おまえはひどい水虫だから、立っているのは辛かろうと、殿下は仰せられたのだった。

子供のように泣きじゃくりながら、中佐は理不尽だと思った。理不尽とは、道理を尽くさず無理無体に押しつけることだ。殿下はよその国の軍服を押しつけられ、今またよその国に、原子爆弾を押しつけられた。道理もくそもあるものか、と中佐は泣いた。

殿下は昭和20年8月7日払暁、薨去(こうきょ)された。最期を看取った中佐はその直後、病室の前の芝生に正座し、慟哭しつつピストルで自らのこめかみを撃ち抜いた。

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歴史に埋もれさせてはならない事件...
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おとなの週末Web編集部 今井
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