Hi-STANDARD/NAMBA69(ハイスタンダード / ナンバシックスティーナイン)の難波章浩さんによる「なみ福プロジェクト」の短期連載がスタート。プロジェクト立ち上げからお店のオープンまで、難波さんはじめプロジェクトメンバーによる歓喜と苦悩の日々に迫ります。
画像ギャラリー難波さんの人生に欠かせない、新潟『楽久』のラーメン
札幌ラーメン、喜多方ラーメン、長浜ラーメン、富山ブラック……地元で愛されるラーメンが数ある中、新潟は「新潟あっさり醤油」「新潟濃厚味噌」「燕背脂」「長岡しょうが醤油」の4大ラーメンを有する。
その中のひとつ「新潟あっさり醤油」を牽引する名店『楽久(らっきゅう)』こそ、難波章浩さんがラーメン屋を開くきっかけになっている。
それにしても、伝説的ロックバンド「Hi-STANDARD」のボーカル/ベースを務め、現在は、NAMBA69のフロントマンとしても活動している難波さんがなぜラーメン屋を? と思った人も多いハズ。
難波さんは生まれが東京ながら、小学校のときお父さんの出身地・新潟に移住。高校卒業後に上京するも、Hi-STANDARDの活動休止後、沖縄を経て、2009年新潟へUターンした。
『楽久』には、前身の店に小学生の頃から通っていて、『楽久』になってからも帰省の度に食べては、Uターン後もツアーから戻ってきたらまず最初に食べに行った。それほどまでに愛するお店である。
「僕はいつも応援してくれる方たち、家族、仲間、そして音楽に救われてきました。その中でもうひとつ僕を支えてくれていたのが、『楽久』のあっさりラーメン。とにかくめちゃくちゃおいしい。一番のソウルフードです」
黄金色に透き通ったスープをひと口飲むと、丁寧に取られた煮干しのダシの旨みと香りが、口一杯に広がっていく。
細くてコシのある麺は、すするとそののど越しのよさでスープと一体となり、のどをつたう。チャーシュー、メンマ、ネギのスリーピースなトッピングがまた、それぞれの旨みを引き立てる、見事なバランスの一杯だ。
女将さんから突然の告白。突き動かされた継承への思い
難波さんの人生において、大きなウエイトを占めていた『楽久』のラーメン。いつものように食べていたある日、女将さんから突如「閉店」を告げられる。
「もちろん、聞いたときはショックでした。でも、お店を受け継ぐ方がいると聞いていたので、ホッとしていました。それもつかの間、コロナの影響でその話がなくなったから、お店を畳もうと思ってると言ったんです。
その瞬間、他の方に厨房を明け渡して、違うものが作られてしまうのは絶対にイヤだ、って胸がドキドキして……。何より、女将さんの『楽久』への味や思いはどうなるんだ。そんなことを考えていたら、『僕に楽久の味を守らせてくれませんか』と口をついていました」
しかし、女将さんからはいい返事が得られなかった。「新潟が誇るこの味をここで途絶えさせてしまっていいのだろうか?」「自分に何かできないだろうか?」と自問自答の日々が続いた。
「僕は料理ができないし、飲食業界で働いた経験もない。もし、女将さんが了承してくれたとしても『味を引き継げませんでした』ということになったら、巻き込んだ人や雇った人たちにも迷惑をかけるし、『楽久』ファンの方たちを失望させてしまうことになりますよね……」
それでも難波さんの中で『楽久』をなくしたくないという思いが消えることはなかった。女将さんに思いを伝え、何度もお願いをした。
「『そんなに言ってくれるなら』と、許可をいただきました」
難波さんの純粋な気持ちが女将さんの心を動かしたのだ。ここから『楽久』継承への道がスタートした。
しかし、肝心な女将さんの味を引き継ぐ人を探さねばならなかった。知人の紹介で出会ったのが、熊倉誠之助さん。新潟県岩室温泉にあるイタリアンレストラン『KOKAJIYA』の経営者だ。熊倉さんと共に働く料理人・岩田靖彦さんも参画した。
そして、店長候補。この人選が難航を極めた。求人募集をかけることに抵抗があり、友だち伝いに探そうとしたが、なかなかいい人材に出会えず。最終的に募集をかけたところ、メンバーが見つかった。新潟の有名ラーメン店での経験がある野口誠さんと、当時新潟大学に通っていた阿部真大さん。
その多くがハイスタに魅了されてきた人たち。一様に「難波さんに恩返しがしたい」と言う。難波さんが楽久のラーメンに救われてきたように、難波さんの音楽に救われてきたのだ。
こうして、『楽久』の味を継承する「楽久プロジェクト」が発足。地元の人気ローカル番組でも取り上げられ、多くの人にプロジェクトが知られることになった。
『楽久』閉店。継承に向けて新たな問題が勃発
『楽久』が閉店を迎える2021年11月28日に向けて、『楽久』の厨房では女将さんと野口さん、阿部さんによる味の継承が行われた。数ヶ月の間に、何度も何度も試作を重ね、女将さんから「おいしい」と言ってもらえるほどに成長していた。
そして迎えた閉店の日。店の前には多くの列ができていた。
11時、女将さんがのれんをかけると、どこからともなく拍手が起きた。それだけでも『楽久』が愛されていたことがよくわかった瞬間だった。
難波さんはじめ「楽久プロジェクト」のメンバーもその列にいた。難波さんはこのときの気持ちを「寂しいのか何なのかわからない。とにかく食べたい」と語った。
お店に入り、厨房でラーメンを作る女将さんの姿を見て「ラーメンがなくなるってことは、厨房に女将さんがいなくなること。いつでもいてくれる人がそこにいなくなってしまうと思ったら、泣けてきちゃって……一気に寂しくなりました。どこかで自分の母親像を見ているところがあったかもしれませんね」。
食べ終わったあと、ラーメン一杯に対してこれだけの思いがあるんだと実感した難波さんは「『楽久』の魂を継承する」と改めて心の中で誓った。
営業終了後、「楽久プロジェクト」のメンバーでお花を渡した。難波さんは女将さんにこう話した。
「女将さんのラーメンに救われました。僕らは女将さんの気持ちをこれからも大切にしていきます。まずはお疲れ様でした。ゆっくりしてください」
店を出たあと、暖簾を下げる女将さんの姿を見て「いつもと同じ終わり方なのがかっこよすぎる」とつぶやく難波さんだった。
実は難波さん、『楽久』を継承するにあたって、お店を土地ごと買い取っていた。
「あの味を再現できるのはあの厨房しかないと、お願いして譲り受けました。それくらい気合いを入れてやるつもりでした」
その気持ちとは裏腹に、大きな壁にぶつかった。お店の駐車場が数台しかなかったのだ。車社会の新潟だからこその問題である。
近くにコインパーキングがなく、近所のそこかしらに車が止まってしまうようなことがあっては近隣の方に迷惑がかかる。それは避けたいと、『楽久』の地にラーメン屋を構えることを断念した。
代わりに店舗を『楽久』の味を全国に届ける冷凍ラーメンの製造・配送場所となる拠点に決めた。そうすることで『楽久』の味を同じ厨房で作ることができると考えたのだ。
店舗探し、そして「なみ福プロジェクト」誕生!
では店舗をどこに構えるか。駐車場を十分に確保できる場所としていくつか思い浮かぶ中、向かったのが「海辺」だった。実はそのころ、女将さんから難波さんにあることが告げられていた。
「『楽久』の名前は変えてね。私の店じゃなくなるから、難波さんの店なんだから。ものすごくシンプルな答えでした。守るところは守りつつ、自分たちのものにしていかなきゃいけないんだと決意した瞬間でした。
女将さんは言葉少なにバシッと言ってくれる。今のアルバムいいわね、あの曲いいわね、あのライブよかったわね、と言ってくれた。中にはそこ見てくれたんですか! というときもあって、実は僕のバロメータだったんだよね、女将さんの言葉は」
ここでもまた、女将さんの言葉に気付かされた難波さん。折しもコロナ禍で新潟にいる時間が増え、新潟の街とじっくり向き合えた。
その中で出合ったのが、角田浜にある『季節旅館 おとひめ』。佐渡ヶ島が一望できる築50年の浜茶屋(海の家)だ。難波さんが家主さんと直接話をする中で、角田浜も後継者不足による影響を受けていた。
「かつては50軒以上の海の家が立ち並んでいて、すごく賑わっていたそうです。今では人口減少や後継者不足で営業しているのは数軒だけ。来場者も少なくなっていると聞いて、浜茶屋も僕たちが守ろうと考えました。新潟の人はもちろん、県外の人からも長く愛されるように続けようと思いました」
難波さんのプロジェクトへの思いや夢を聞いた家主さんから、譲ってもいいという言葉をいただいた難波さんは感動に打ち震えたと言います。
「目の前には広大な海、そしてきれいな夕日、夜は月が見え、灯台もある。そして山もある。とにかく景色が素晴らしいんです。そこにずっといてたら、『なみ福』という名前が降りてきました。波の音もすごくいいんですよね」
こうして「楽久プロジェクト」は「なみ福プロジェクト」と名前を変えた。様々な思いを背負って……。ここからが本番。浜茶屋の改修工事や、開店に向けての資金など莫大な費用が必要となった。そこでスタートさせたのがクラウドファンディングだった。
「業者にまかせるのは簡単。でも、その工程すら人生をかけてやってみようと、腹をくくりました。泣きそうになるくらいおいしかった『楽久』の味。それをさらに泣かしちゃう味にできたら『なみ福』はかっこいいし、素敵にならないわけがない」
次回は、クラウドファンディングでの取り組み、そして返礼品について、どのように進めていったのかをお届けします。お楽しみに。
取材/編集部えびす 写真提供/なみ福プロジェクト
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