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初投稿から苦節17年目の作品の……

「よく聞け。『浅田次郎』というきわめて簡明かつ任意的かつどうでもよさそうなペンネームには、実は聞くも涙、語るに堪えぬ深く悲しい由来があるのだ。オレはな、かつて投稿魔であった。わずか13歳のとき初投稿した『小説ジュニア』(注・昭和40年代~50年代にかけて集英社が発行していた少年少女向小説誌)がボツ。続けて河出書房新社に持ちこんだ原稿もボツ。以来、不良高校生時代から30を過ぎるまで、群像、文學界、新潮、文藝、すばる、オール讀物、小説現代と、およそ目に触れる限りの新人賞に応募したのだが、ことごとくボツッた。わかるか、この間ボツとなって哀れ音羽の煙、紀尾井町の塵と消えた原稿用紙は三千数百枚にものぼる」

「それ、自慢ですか? 自嘲ですか?」

「うむ。自慢であったのは半分ぐらいまで。以降は自嘲となり、自慰となり、しまいには自虐であったな。ところがだ、石の上にも三年というか、無理を通せば道理ひっこむというか、一念岩をも通すというか、30歳ぐらいのとき、群像新人賞の予選を通過した」

「オオッ! 快挙ですねえ」

「そうだ。キサマのようなシンデレラ・ボーイには決してわかりはすまい。初投稿から苦節17年目、惜しくも最終選考には残らなかったものの、例えていうならオレはそのとき、愛する人の手を握った気がした。わかるか、わかるまい。17年も恋いこがれた人の手を、オレはやっと握ることができた。泣きましたよ。感動しましたよ。その温もりだけを心に刻んで、ジジイになるまで頑張れると思いましたよ」

「……なるほど、まさに自虐の世界ですね」

「さよう。で、さっそく事務所を飛び出し、ベンツを駆って音羽の講談社へと向かった」

「ベンツ、ですか──ちょっとイメージが浮かびませんけど」

「ま、いいじゃないか。ともかく嬉しくって、有難くって、講談社の門前に車をつけてだな、路上に気をつけをして、深々とコウベを垂れた」

「もしや当時、パンチパーマではなかったですか? だとすると──」

「ふむ。たちまち門前にはガードマンが集まって来たな。おそらくは新手のいやがらせだと考えたのであろう。何の用かと訊かれたので、お礼参りですと答えると、彼らは何を勘ちがいしたものか全員がスッと青ざめた。不用意な発言であったと今も反省している……ところで、何の話だったっけか」

「ペンネームの由来について、です」

「ああそうだ。そうだったな」

「なるたけ簡潔に願います」

「つまり、だ。早い話が、その予選通過作品の主人公の名前が、『浅田次郎』というのだ。原稿はやっぱりボツになった。だがオレは、どうしても、その主人公の名前を音羽の煙とするのは忍びなかった。そのぐらい嬉しかったから……」

「あの、浅田さん。何も泣くことないじゃないですか」

「……直木賞も、ボツになってしまった」

「まあ、気持ちはわかりますけどねえ。ところでその群像新人賞の予選通過作品、いったいどういう物語だったんですか。すげえ思い入れがあったようですけど」

「あれは傑作であった。まあ聞け──ヒットマン『浅田次郎』が八年の服役をおえて出所する。ところが企業化した組織には受け入れられず、流れ流れてとある港町へ。そこで初恋のオカマと再会し、焼けボックイに火がついて、霧の波止場で燃えるようなくちづけをかわすのだ。しかるのち再び組織の密命を受けて拳銃を執る次郎。いけない、それだけはやめて、どうしても行くというのならそのコルトで私を殺してからにして、とすがりつくオカマ……」

気が付くと二人の姿は消えていた。

ペンネームの由来について作家に訊ねるのは、あまり良いことではないと思う。

(初出/週刊現代1996年8月24日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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