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1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第27回。子供の頃からどうしても小説家になりたかった男がついにつかんだ栄光。恋焦がれた文学賞受賞の夜に作家が思い浮かべたこととは……。

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「栄光について」

夢に見続けた直木賞受賞

再三にわたり公共の誌面を私することの愚をどうかお許し願いたい。

また、「栄光について」という不遜きわまるタイトルも、併せてお許し願いたい。

今あえて「栄光」の題を掲げるのは、栄光が私個人の栄光にあらず、私を今日まで熱心にはぐくみ育てて下さった出版社、編集者、諸先輩方、なかんずく愛読者の皆様すべての栄光と信ずるがゆえである。

こうしてペンを執っているわずか数時間前、第117回直木三十五賞をいただいた。

明朝は早くからテレビ出演があるということで、受賞作の版元がホテルをとって下さった。寝つかれぬままにこの原稿を書いている。

幼いころから夢に見続けてきた夜が今日であるということを、いまだに信じられない。よしんばその夢が少年の思いこみであったにせよ、私は小説家になりたかった。直木賞作家と呼ばれたかった。45年の人生のうちの少くも30数年を、私はその夢のためだけに生きてきた。まるで子供が、ないものねだりをするように、路上で地団駄を踏み、泣きわめき、周囲のすべての人々にあらぬ迷惑をかけ続けてきた。その間に自から投げ捨てたもの、喪(うしな)ったものも計り知れない。

学問もしなかった。孝養もつくさず、信義を顧(かえりみ)ず、礼節をわきまえることもなく、ただひたすら「小説家になりたい」「直木賞が欲しい」と駄々をこね続けてきた。

だから、小説家になったなどとは言えない。直木賞を取ったとも言えない。小説家にしてもらった。直木賞を、いただいた。

1年前の落選直後、悲嘆の夜に

ところで、このホテルには忘れがたい思い出がある。

奇しくも1年前の同日、私はこのホテルにいた。初の直木賞候補が落選し、立ち上がることすらできぬほどに憔悴しきった私を、古いなじみの編集者が担ぎこんでくれたのである。

しかし、私を知悉(ちしつ)する編集者は、決して私を慰めはしなかった。私の慄(ふる)える指に万年筆を握らせ、うつろな瞳の下に原稿用紙を開き、テーブルを叩いて、編集者は叱咤した。

「書くのよ。今すぐ、書くのよ。あなたから小説を取ったら、骨のかけらも残らない」

頭の中がまっしろで、何も書くことができなかった。書けない、書けない、と私は泣いた。

「書けないのなら、今まで書けなかったことを書けばいい。どうしても小説にできないことを書くのは、今しかない。今日しかない。私はあなたの原稿を3年も待った。あと2日だけ待ってやる。さあ、書くのよ」

立ち上がることすらできぬまま、私はペンを執り、思い出すだにおぞましい幼時体験を小説にした。

あとにも先にも、泣きながら原稿を書いたのはその一度きりである。ディテールは何ひとつ思いうかばなかった。だから高層ホテルの窓から望む新宿の灯と摩天楼だけが小説の舞台になった。

「角筈(つのはず)にて」と題されたこの作品は、今回の受賞作となった短篇集『鉄道員(ぽっぽや)』に収録されている。

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ただいい短編集を作りたかった...
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おとなの週末Web編集部 今井
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