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1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第28回。どうしても小説家になりたかった男がどうしてもほしかった文学賞。その選考会の日、受賞の可否を待つ作家は何をして何を考えていたのか。

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出陣について

数寄屋橋のバーに担当編集者が集結

夜更、ローマで買い求めた「ピエタ」のレプリカを机上に置き、モーツァルトを聴いた。

昨年に較べればだいぶ気持に余裕があった。むろん自信があったのではない。2度目の経験なので、心の中に免疫抗体のようなものができていたのである。

ところが前夜になって、その免疫抗体が突如としてトラウマに変化した。昨年の落選をありありと思い出してしまったのである。

直木賞候補にノミネートされたことはフィレンツェで聞き、帰国してすぐ翌週、北京、香港へと取材に出た。当然その前後は原稿の締切に追いまくられていたので、正しくは多忙のために気がまぎれていただけかもしれない。いずれにせよ前夜になって初めて、真黒な塊が頭上に降りてきた。

満月のさし入る書斎の縁側にちょこんと座って、ミケランジェロを眺め、モーツァルトを聴く。そうでもするほかに、なすすべがなかった。地球上のどこにも、身の置き場がないような気分であった。

「あのう……」

と、廊下で家人が声をかけた。この数日、家族は大声も出さず、私の目をまともに見ようともしない。

「あのう……ちょっといいですか」

「はい、どうぞ」

襖がスルスルと開く。

「さしでがましいとは思いますが、明日は一緒に待たしていただいていいですか」

うう、と私は心の中で呻いた。落選の悲報に接したとき、その場に家人がおるのはまずい。

「おやめなさい。体に毒だから」

「でも、家で電話を待つとか、テレビのニュース速報を見るのはもっと毒ですから」

「編集者の皆さんが気を遣う」

「それはわかりますけど……」

まあ、気持はわからんでもない。いちおう版元の担当編集者に電話をして了解を得、明日は同席させることにした。

「猫をくれ」

「どの子を……」

「キャラちゃんを」

キャラはひと月前にわが家にきた真白な仔猫である。名前は候補作『鉄道員(ぽっぽや)』に所収されている短篇小説「伽羅(きゃら)」にちなむ。

かえすがえすも命名を後悔しつつ、仔猫を膝に収めた。キャラはとても人なつこい性格で、抱けばすぐに眠ってしまう。

満月が南天に昇りきるまで、「ピエタ」を眺め、「ジュピター」を聴いた。

夏の夜の静謐(せいひつ)さがおそろしい。

7月17日。雨。

神経は針のように尖り、ギャグの切れも悪く、銀座までの往路、車に酔った。

午後5時ちょうど、数寄屋橋のバー「V・V・V(スリーブイ)」へ。贔屓(ひいき)の女優、とよた真帆さんの母上が経営する店である。店内はすでに大勢の編集者たちで満員。週刊誌のグラビア班も4誌。何だか舞台に上がった感じでフラッシュを浴びる。

私を囲んで、担当編集者が車座になる。講談社、集英社、徳間書店、新潮社、光文社、角川書店、中央公論社、幻冬舎、双葉社……いずれも長い付き合いの担当者ばかりで、デビュー以来今日までの私を、公私にわたりつぶさに見てきている。いや、ともに歩んできたというべきか。

したがって全員が私と同様のプレッシャーを感じており、ほとんど石であった。ときどき石が口をきき、他の石たちが苦しげに笑う。さっきから私の隣に大理石の彫像が置いてある。よく見ると候補作の担当編集者C女史であった。

ただひとり、この席に文藝春秋社の担当がいない。同社は直木賞の運営に携っているので、担当編集者のH氏は同席できないのである。しかも、皮肉なことには「落選者への連絡係」であるという。

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おとなの週末Web編集部 今井
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