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1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。

この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第29回。作家には重大な弱点があった。それは、陸海空どんな乗り物にも酔ってしまい、嘔吐してしまうこと。今回は、以前の稼業の頃に起こった、あまりに不憫で爆笑してしまうエピソードを開陳!

嘔吐について

装甲車内で吐いて袋叩きに

サルトル論を開陳するわけではない。

読者の中には二日酔で気分の悪い方や食事中の方も多いであろうから、あえてルビをふることは差し控えた。サルトルの場合は「おうと」と読むが、浅田の場合は「げろ」と読む。

私はしばしばゲロを吐く。酒は一滴も飲まないし、内臓は頑健である。ではなぜかというと、ひどい乗物酔いをするのである。

乗物という乗物はすべて酔う。甚だしきは後楽園遊園地の「魔法のじゅうたん」で吐き、八方尾根スキー場のゴンドラの中で吐いた。

飛行機はことに弱い。これから乗ると考えただけで、成田エキスプレスの車内からすでに酔っており、空港ロビーでは正体もなく、機内では睡眠薬をしこたま飲んで寝るしか手だてはない。それでもかつては、ロスに向かうファーストクラスのシートで意識朦朧のうちに寝ゲロを吐き、ユナイテッドのスッチーをあわてさせたという苦い経験を持つ。

子供の頃はこの悪癖のために、しばしば楽しい遠足も欠席せねばならなかった。「大人になったら治るよ」と母はやさしく慰めたが、噓であった。自衛隊に入って鉄の胃をさずかり、もう大丈夫だと思ったとたん、演習中の装甲車内で大ゲロを吐き、袋叩きにあった。

車の場合はご多分に洩れず高級車ほど酔う。体調によっては運転していても酔うので、ために40を過ぎた今日まで愛車はカチカチのサスペンションを備えた4WDと決まっている。事情を知らぬ人は「若いですねえ」とか言うが、決してミエではないのである。

接待を受けた帰りなどが一番困る。配車をされればイヤとは言えず、チケットの明細は先方の経理課に回るだろうと思うと、途中下車するのも何だか気が引ける。

こうした場合でもタクシーならばまだよい。気さくな運転手と景気がどうのジャイアンツがどうのとしゃべくっていれば、けっこう気分は紛れる。ふつう出版社の用意してくれる車はたいていこれである。

ところがまずいことに、講談社は礼儀正しい。本稿の執筆開始の折には都内某ホテルに一席もうけていただいた。私は酒は飲まぬがその分食い意地が張っているので、理由の如何(いかん)に拘(かかわ)らず饗応を好む。高級懐石をこの時とばかりしこたま食い、仕事の話は余りせずにお開きとなった。エントランスの車寄せに出て、私は愕然とした。スーッと目の前につけられた車は、私の最も脅威とするばかでかいリムジンだったのである。当然のことながら運転手は全然気さくな感じはせず、帽子を冠って白手袋を嵌(は)めていた。

乗ったとたんに酔った。何とか気持をごまかそうと思い、ペナントレースの行方について訊ねた。ところが彼は背中に旗竿でも入れたような格好のまま、「はい」とか「いいえ」としか答えてくれないのである。しかもタクシーのようにスピードを出してはくれず、中央高速の左車線を礼儀正しく走行して行くのであった。懐石料理はたいそう高級であったので、「吐いてたまるか」という一念が何とか私を持ちこたえさせた。

ところで、車酔いは緊張やストレスと大いに関係があるらしい。その証拠に同じ接待の帰途でも、編集長同席の場合は必ず酔い、若い衆とワイワイやった帰りは余り酔わない。

 そう思えばかつて極悪非道の悪人であったころには、ベンツだろうがロールスロイスだろうが、車酔いをしたという記憶がない。やはり催促される立場よりも、催促する立場の方がストレスはたまらないのであろう。

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おとなの週末Web編集部 今井
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